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日本人の物語01461【室町/西国/大乱前夜】貞成、上皇となる

この連載も丸4年が経ちました。4年経って室町中期というのは、まあ想定通りの進み具合かなと思います。

 文安2(1445)年3月24日。畠山持国が管領を辞任し、細川勝元を後任に据えました。斯波義淳が何度も辞退したように、管領職の財政的負担が大きかったのでしょう。細川勝元はまだ16歳で政治力がなく、政策決定の場は有力守護から成る宿老会議に移りました。
 ちなみに管領職はこれ以降、
・畠山持国(1442~1445)
・細川勝元(1445~1449)
・畠山持国(1449~1452)
・細川勝元(1452~1464)
と続き、当面はこの2人が交互に政権を担当するようになります。
 細川勝元政権が発足した翌年の文安3(1446)年12月13日、次期将軍に内定していた三春(満10歳)は、後花園天皇から「義成(よししげ)」の名を与えられました。「戈(ほこ)」を漢字に含めることによって武勇に秀でた人間になってほしいとの願いが込められたのでしょうが、元服前に名を与えられるのは珍しい事例です。
 なお、享徳2(1453)年6月13日に義成は「義政」と改名することとなります。後花園の子が元服して「成仁」と命名されたため、同じ漢字を避けたものでしょう。コロコロ名前が変わると分かりづらいので、本稿ではこれ以降「義政」で統一したいと思います。
 義政が将軍就任への準備を着々と進めている中、文安4(1447)年2月に管領勝元は山名熙貴の娘・春林寺殿(しゅんりんじどの)を娶りました。山名熙貴といえば嘉吉の乱で戦死した人物で、春林寺殿は父を失った後、同族の山名宗全に育てられてきました。
 つまり勝元は宗全の養女と結婚したわけで、山名家との結びつきを深めたのです。これは隠然たる権力を持つ日野重子・畠山持国を牽制するためでしょう。後に応仁の乱で東西両軍の総大将格として対立する運命にある細川勝元と山名宗全ですが、この時点では舅と婿の関係であり良好な関係を結んでいたのです。
 さて新政権の下で、長年に渡って伏見宮貞成親王が欲しがっていた上皇号の件がやっと動きました。3月6日、後花園天皇は「近日しきりに父から催促があるから」との理由で、父・貞成への上皇号について万里小路時房に諮問しますが、時房は後小松院の遺訓を理由にあくまでも反対します。
 3月23日に、今度は中山定親が時房を訪れて説得します。時房は反対しつつも、
「後亀山上皇のように、天皇の父でない皇族に上皇号が発せられた例がある(01245回参照)。その例に準じ、今回も『貞成親王は天皇の父ではない』との理解の下に上皇号を出してはどうか」
との妥協案について述べました。これなら後光厳流が断絶したことにはならないわけです。
 これが決め手となり、11月27日、やっと伏見宮貞成親王に太上天皇の尊号が宣下されました。諡は「後崇光院」です。念願叶って貞成親王は感無量だったでしょう。

今年もお読みいただきありがとうございました。いつまで続けられるか分かりませんが、少なくとも来年中に中断することはないと思います。今後もよろしくお願いします。

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