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日本人の物語01187【南北朝末期】世阿弥と能

現代人は「室町の子」だというのに、なぜ室町時代はかくも人気がないのでしょうね。

 司馬遼太郎が著書『この国のかたち』第三巻でいみじくも「私どもは、室町の子といえる」と述べたように、現在日本人が「日本らしさ」を感じる能、狂言、謡曲、日本建築(書院造)、日本庭園、華道、茶道などの日本文化のほとんどは室町時代に成立したものであり、中でも能が日本文化に与えた影響は大きいでしょう。
 正確な年代は分かりませんが、天授元/永和元(1375)年頃、観阿弥(かんあみ:1333~1384)・世阿弥(ぜあみ:1363?~1443?)父子が今熊野神社で能を興行し、義満を含めた公卿らがこれを見物しました。これが全ての室町文化の始まりといってもよいほど後世に影響を与えた一日となりました。
 それまで、こうした興行を生業とする者は乞食の一種とみられ、ひどく差別されていました。例えば内大臣・三条公忠は日記『後愚昧記』で世阿弥のことを「散楽者であり乞食の所行をする者」と罵っています。
 しかし、義満は当時12歳だった世阿弥の美しさに目を止め、これ以降、観阿弥一座を強く支援するようになります。義満のみならず、同席していた二条良基も世阿弥を気に入って「藤若」という幼名を与えました。「乞食同然」と考えられていた興行者の子に藤原の姓から一字とって与えたわけですから、余程の気に入りようです。さらに良基は尊勝院の僧に宛てた手紙の中で「よくぞこんな美童が輩出したものだ」と激賞しています。
 世阿弥はその後、観阿弥一座の座長を引き継ぎ、50作以上の作品を書いて能の祖とみなされるようになりました。
 観阿弥・世阿弥の能には一定のパターンがあります。能では主役を「シテ」、副主役を「ワキ」、第一幕と第二幕の間に登場する脇役を「アイ」と呼ぶのですが、それぞれの役割と物語のパターンを見ていきましょう。
①旅の僧(ワキ)がある土地を訪ね、見知らぬ人物(シテ)に出会う。その人物がその土地ゆかりの故事を語り、実は自分こそがそのゆかりの者の亡霊であると明かす。
②里人(アイ)が僧にその故事の詳細を語る。
③僧の前にあの亡霊が再登場し、当時の苦悩を語ったり舞ったりして消えていく。
 つまり能は幽界にいる亡霊(シテ)が現世の人物(ワキ)に語りかけるという異色の構造を持った演劇なのです。能舞台は、本舞台の左側に橋のような部分(橋掛かり)があり、橋の奥に幕がかかっています。幕の奥は幽界であり、本舞台は現世であり、橋はその両界をつなぐものとみなされているのです。
 世阿弥は後に能の指南書『風姿花伝』を執筆します。風姿花伝は冒頭に「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と記されており、長らく秘伝とされてきたのですが、明治時代にその全文が公開されました。能の指南だけに留まらない優れた芸術論・演劇論でもある古典です。

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