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日本人の物語01545【室町/西国/応仁の乱】将軍と管領の戦い

今回から、将軍義政が東軍方につくことになります。

 応仁元(1467)年5月30日。細川勝元は義政に牙旗(将軍の旗)を要求しました。将軍の命令を受けた官軍として宗全らの反乱軍と戦いたいというわけです。義政は1月には西軍の味方をしていたはずなのに、なんとこの申請を認めようと言い始めます。どういう風の吹き回しでしょう。例によって義政は、「いま目の前にいる人」を有利にする方向に決断してしまう癖があります。
 この決断には日野勝光・富子兄妹が猛反対しました。特に勝光は
「室町殿の旗は、公方の御敵が出現した際に出されるべきもので、今回のような私戦で出すべきではありません」
と涙を流してまで反対します。こうした事実をもとに、「実は勝光・富子兄妹は西軍方に通じていた」と考える研究者もいますが、真相は定かではありません。
 6月3日。日野兄妹の反対をよそに義政は勝元に牙旗を授けてしまいます。これにより、「東軍が幕府軍で西軍が反乱軍」という構図が出来上がってしまいました。
 それにしても不思議な構図です。室町幕府では、将軍の名を直接記した命令書を出すことは滅多になく、普通は将軍の意を受けた管領が代理で命令を発出するので、管領名での「管領施行状」という文書形式を用いていました。命令者たる将軍の意思を管領が施行するぞ、という趣旨です。
 ところが、管領たる斯波義廉は西軍に属しています。東軍は管領名の命令書を発出できず、やむなく「奉行人奉書」を発出することで、それに代えることになりました。
 一方の西軍は、管領がいるものの将軍がいません。将軍の命令を管領が代理施行する「管領施行状」を用いることはできず、やむなく管領自身が命令者となる「管領下知状」を用いていました。
 本来、将軍には管領を罷免する権限があるはずなので、義政はその気になれば斯波義廉を解任して別の者を管領に据えることができたはずなのですが、なぜかそれをしません。もしかすると、義政はこの戦はちょっとした小競り合いに過ぎず、少し時間が経てば仲直りできると信じていたのかもしれません。
 義政のそんな中途半端な態度を、勝元は不甲斐なく思っていたに違いありません。6月8日、牙旗の要求に続いて勝元はさらに西軍に打撃を与える一手を打ちました。それは将軍の弟である義視を東軍総大将に据えることでした。
 いくら将軍による反乱軍の鎮圧といえども、将軍義政自身を総大将とすることは先例がありません。そこで将軍の血縁者にして次期将軍に内定している義視を担ぎ出せば、いずれに味方するか測りかねている者たちを一気に味方につけることができそうです。
 しかし、勝元がここまでしても、なお西軍の兵は士気を失うことなく戦い続けたのです。

応仁の乱は「東軍VS西軍」の争いと見ることもできますが、「幕府軍VS反乱軍」と見るのも正解だと思います。

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