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日本人の物語01180【南北朝末期】「日本国王」をめぐる攻防

いわゆる「日本国王」の問題はずいぶんセンシティブなものとして取り上げられることが多いようです。天皇ではない者が国王を名乗ってしまうとは、現代人から見てもタブーなのでしょう。

 九州探題に今川了俊が就任したことで、いよいよ幕府による九州回復戦が始まります。
 了俊の勢いはすさまじいものでした。まず建徳2/応安4(1371)年7月、息子の貞臣(さだおみ)を高崎城(大分県大分市)に送り込み、11月には弟の仲秋(なかあき)を肥前松浦(佐賀県唐津市)に送り込みました。そうやって基礎を固めておいて、自らは12月、山口の大内弘世・義弘(よしひろ:1356~1399)父子から4千騎の援軍を得て渡海し、門司(福岡県北九州市)に上陸しました。
 翌建徳3/応安5(1372)年2月には、了俊は多良倉城と鷹見嶽城(いずれも福岡県北九州市)を陥落させました。一方、松浦に上陸した仲秋は烏帽子嶽(福岡県糸島市)で菊池武政軍を破りました。
 緒戦に勝利した今川軍は、いよいよ南朝方の本拠地・大宰府に迫ります。4月から大宰府包囲戦が始まりますが、さすがに菊池方の抵抗が強く、戦いは4ヶ月にも及びました。
 包囲戦のさなかの文中元/応安5(1372)年5月、時ならぬ訪問者がありました。博多港に明の使者・仲猷祖闡(ちゅうゆうそせん)と無逸克勤(むいつこくごん)が到着したのです。彼らは明の皇帝の国書を携えて、「日本国王」である(明がそう思っている)懐良親王を訪ねてきたのです。
 しかし、博多港は既に幕府方の手に落ちていました。今川了俊がこの使節に応対したところ、なんと「日本国王良懐」への書状を持っているではありませんか。
 了俊は丁重に使者をもてなしつつ、
「良懐は日本国王ではない。たかが九州の一角を不法に占拠している者に過ぎない。真に日本を統治しているのは京におられる将軍である」
と伝えましたが、使者たちは
「よく分からないが、日本はひどく揉めているのだな」
という印象しか持たなかったでしょう。使者はその後京に送られ、翌年には将軍義満に謁見します。この後、明との交渉窓口は幕府方に移り、「日本国王」の座は足利義満が手にすることとなります。
 保守系の歴史家が、明に朝貢して「日本国王」に封じられた足利義満を「売国奴」と称してこき下ろすことが多いようですが、南朝方の懐良親王も同様に振る舞っていたことを忘れてはならないでしょう。また、日本統一に王手をかけていた北朝方が明とやり取りする場合に比べて、九州のみを占領するに留まり圧倒的不利であった南朝方が明とやり取りする方が、「明軍の協力を得て国内紛争を有利に進める」という禁じ手に踏み込む可能性が高かったと思われます。
 了俊の博多港制圧がもう少し遅れていれば、懐良親王と明とのやり取りはさらに本格化していたでしょうし、明軍が南朝方と結託して日本に侵攻するなどして日本の独立が脅かされていた可能性もあったかもしれません。

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