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日本人の物語01469【室町/西国/大乱前夜】弥三郎派の一掃

畠山家の家督問題が応仁の乱の第一原因ですので、それに関連する回はしっかり記憶に留めていただくことをお薦めします。

 畠山家の家督問題は、義就か弥三郎かで揉め、結局義就が家督を継ぐことで決着したのでしたね。その問題が再び火を噴きます。
(ちなみに弥三郎にも諱があったはずですが、「政久」なのか「義富」なのかはっきりせず、やむなく「弥三郎」と呼ぶしかありません)
 問題が再燃したきっかけは、享徳3(1454)年4月、畠山持国被官の誉田弥六(こんだやろく)がうっかり義就に
「あなたが殿の実子でないと噂する人たちがいる」
と言ってしまったことでした。祖父の誉田金宝(こんだきんぽう)は、この発言を咎めて弥六を切腹させました。
 どうやらアンチ義就派がまだまだ活動しているらしい、と知った畠山持国は調査を実施します。その結果、家臣の神保国宗(じんぼうくにむね:?~1454)が弥三郎を擁立しようとしているとの報告が入りました。
 4月3日。持国は義就の家督を確立するため、側近の遊佐国助(ゆさくにすけ)に命じて神保国宗を討ちました。弥三郎派の一掃です。
 命からがら逃れた弥三郎が頼った先は、管領の細川勝元でした。勝元と持国はライバル同士で対立していましたから、細川家なら匿ってくれると思ったのでしょう。実際、細川勝元は快く弥三郎を迎え入れ、家臣の磯谷四郎兵衛(いそがいしろべえ:?~1454)に匿わせました。勝元の同盟者たる山名宗全も、弥三郎の家臣らを庇護しました。
 ところが持国は執拗でした。なんと将軍義政に申し出て、弥三郎追討の御教書を出させたのです。この時点では勝元よりも持国の方が明らかに実力者であり、義政も逆らえなかったのでしょう。
 8月になって、義政は
「勝元被官の磯谷四郎兵衛が弥三郎を匿ったことに原因がある」
として、勝元に磯谷四郎兵衛を殺すよう命じました。これも持国の差し金です。勝元にとって我慢ならぬ命令だったでしょうが、ここで将軍に逆らうわけにはいきません。
 勝元がやむなく命令を履行したところ、これを聞いた山名宗全は怒り心頭に発して勝元邸に乗り込もうとして、家臣らに止められました。「持国ごときに屈してどうするか」と喝を入れたかったのでしょう。
 こうして畠山家の家督問題は、義就派の勝利で幕を閉じたかに見えました。ところがここから弥三郎派がとんでもない巻き返しを図るのです。

畠山持国というのは結構困った老人のようですね。"うっかり発言"だけで家臣を切腹させるとは普通の神経ではありません。(切腹させたのは祖父だそうですが、当然持国の意向も働いているでしょう)

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