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日本人の物語00672【鎌倉中期】宗尊親王追放 謎多き追放劇

 文永元(1264)年8月。時宗は13歳で連署に就任しました。早すぎる政界デビューですが、早い段階で政治の手ほどきをしようと政村が判断したのでしょう。
 一方、11月には時宗の兄・時輔が六波羅探題南方に任命され、京へと旅立っていきました。これを左遷と見る向きもありますが、六波羅探題はこれまで執権や連署となるための言わば出世コースとして扱われていますから、左遷ではないでしょう。
 さて、6代将軍宗尊親王は近衛宰子(このえさいし:1241~?)と婚姻し、男子・惟康王(これやすおう:1264~1326)をもうけていたのですが、文永3(1266)年にはこの宗尊親王が鎌倉を追放されてしまいます。しかし、その出来事を描く吾妻鏡の語り口はやけに難解で、何が言いたいのかさっぱり分からないのです。
 吾妻鏡に書かれているのは概ね、次の3点です。
 まず6月20日。執権・北条政村、連署・北条時宗、金沢実時(かねさわさねとき:1224~1276)、安達泰盛の4人による秘密会合が開かれたとあります。そしてこの日に「ある事情」のため、松殿良基(まつどのりょうき:?~1266)という僧が行方をくらましたと書かれています。
 6月23日に惟康王が時宗邸に入り、7月3日には全国から集まった軍勢が政所の前で鬨の声をあげたとあります。
 そして7月4日、宗尊親王は京に向かう輿に乗り、鎌倉を出発したといいます。
 以上です。何も教えてくれない無意味な記録といってよいでしょう。
 この謎の記述をどう解釈するかが歴史学者の腕の見せ所で、様々な説明があるのですが、最も分かりやすい解釈は次のとおりでしょう。
 まず、宗尊親王に何らかの不都合(実権を握ろうと画策している、将軍としてふさわしくない行いがあった等)があったことから、6月20日に幕府の重鎮が集まって対策を協議したのでしょう。そこで、
「宗尊親王を廃して子の惟康王を将軍にしてしまおう」
と決定したのではないでしょうか。
 6月23日に、宗尊親王が抵抗できないように惟康王を人質として時宗邸に拉致し、7月3日には御家人たちが鬨の声を挙げて宗尊親王を威嚇し、「将軍位を降りろ。さもないといつでも殺せるのだぞ」ということを示したのではないでしょうか。
 これに耐えきれなかった宗尊親王は、将軍位を降りることを応諾し、7月4日に鎌倉を出発したというわけです。
 しかし、まだ松殿良基の行方不明事件とのつながりが分かりません。この点については別の文献を調べる必要がありそうです。

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