日本人の物語00799【鎌倉末期】長崎思元・為基父子の活躍
さて、北条家の家人・長崎思元と為基(ためもと)の父子は、大仏貞直が苦戦している極楽寺坂切通しへ支援に向かい、必死に防戦していました。しかし新田義貞は極楽寺坂を通らず稲村ヶ崎から鎌倉に進入し、既に戦いは小町通り付近にまで達しています。これを知った長崎父子は、配下の7000騎を極楽寺坂に残しつつ、手勢600騎で小町通りへと急ぎました。
長崎父子らは敵陣にわっと攻め寄せますが、敵は不利になると一旦退却したりして長崎軍を翻弄しながら戦います。父・思元が
「ここで左右に分かれ、潔い最期を迎えよう」
と言うと、子の為基は
「ああ、父の姿を見るのはこれで最後か」
と名残り惜しそうに父を見つめました。これを見た思元は為基を睨み、
「どうせ冥土で落ち合う身。なぜ名残りを惜しむのか」
と𠮟りつけます。為基は涙を拭い、敵の大軍の中へと向かっていきました。
為基は名刀「面影(おもかげ)」を振り回し、これに触れた者をことごとく真っ二つに斬っていきます。新田軍の兵たちは為基に近づくのを恐れ、遠巻きに矢を放って倒そうとするようになりました。
そのうちに為基の馬に矢が突き刺さり、馬は悲鳴をあげて倒れました。馬を降りた為基は刀を地に刺して仁王立ちとなりました。それでも新田軍は彼を恐れて遠矢を射るばかりです。
そのうちに、為基は膝を折って地面に倒れ込みました。
「どうやら死んだようだ」
と判断した新田軍の兵らが、50人余りで為基の首を取ろうと接近していきました。
ところが近づいた途端、為基は突然起き上がって名刀「面影」を取り、
「気持ち良く昼寝しているのを邪魔する者は誰だ」
と怒鳴りつけ、新田軍の兵らを次々と斬り捨てました。為基は死んだふりをしていただけだったのです。太平記のストーリーは明らかに武蔵坊弁慶を意識していますね。
こうして敵を翻弄しながら、為基は一人で戦い続けました。
父の長崎思元はこの日のうちに自害するのですが、子の為基の生死は明らかになっていません。死体が発見されなかったわけですが、恐らく戦死したのだろうと考えられます。
