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日本人の物語00373【平安後期】源俊綱と「大丸」

 後三年の役について述べる前に、頼通の他の子についてもエピソードを紹介しておきましょう。
 以前述べたとおり、頼通の子は6男1女で、通房と師実以外は全て養子に出されたのでしたね。そのうち、次男の橘俊綱(たちばなのとしつな:1028~1094)について取り上げます。
 頼通と藤原祇子の間に産まれた俊綱は、讃岐守・橘俊遠(たちばなのとしとお)のもとに養子に出されました。
 しかし『今鏡』には、「祇子が頼通と離縁して橘俊遠に嫁いだ。その後に俊綱が産まれた」とも読み取れる記述があり、そうだとしたら、橘俊綱の父親は頼通ではなく橘俊遠ということになります。実際には、祇子はその後も頼通の子を4人も産んでいるわけで、『今鏡』の記述は誤りでしょう。
 成長した俊綱は、承保4(1077)年には近江守に就任するほど順調に出世していくのですが、『十訓抄』に極めて不名誉な伝説が残されています。
 当時、成方(なりかた)という笛の名手がいました。その成方は、かつて道長からもらったという「大丸」という名器を吹いていましたが、これを知った俊綱は無性にその笛を欲しがり、
「米千石でどうだ」
などと交渉を開始しますが、成方は乗ってきません。
 そこで一計を案じた俊綱は、
「成方は大丸の売却を決めた」
という噂を流した上で、成方を呼び出して
「遂に売却を承諾してくれたそうだな」
と嬉しそうに語りかけました。成方が「売る意志はない」と否定すると、俊綱は
「人を欺くのは軽からぬ罪だ」
と怒るふりをして、成方に拷問具を見せて威嚇しました。
 罠にかかったことを悟った成方は、
「では大丸をお持ちしましょう」
と一旦家に帰り、笛を手に戻って来たかと思うと、
「この笛のせいでこんな目に遭うのだ」
と言って、俊綱の目の前で突然石を持って笛を砕き始めました。俊綱は泣く泣く大丸を諦めざるを得ませんでした。
 しかし、成方が破壊した笛は実は偽物でした。俊綱は嘘と脅迫によって大丸を手に入れようとしたわけですが、成方の機転によって失敗したのでした。

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