日本人の物語01579【室町/西国/応仁の乱】両雄死す
今でも趨勢を決める戦いのことを「天王山」といいますが、これは応仁の乱ではなく山崎の戦い(1582年)の戦いで天王山が戦場になったためです。
勝元が隠居した直後、今度は
「山名宗全が大乱を起こした罪を謝するために切腹しようとして、周囲に止められた」
との噂が流れてきました。これは尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』に噂として記されているものであって、事実かどうかは分かりませんが、宗全もまた真剣に和睦を考えているとの姿勢を見せるためのポーズを取ったのかもしれません。
勝元と宗全、両軍の事実上の総大将が和睦を望む中、西軍の畠山義就は反発するように、文明4(1472)年8月2日、東軍・浦上則宗が立て籠もる天王山(京都府大山崎町)に夜討ちをかけました。まだまだ戦うぞと訴えたかったのでしょう。
8月に宗全は、家督を山名政豊(やまなまさとよ:1441~1499)に譲って引退しました。この時点でかなり病が進行していたようです。
同じ8月に、西軍に転じた朝倉孝景は越前府中(福井県越前市)を攻略し、甲斐敏光を国外に追放しました。これにより西軍方は、日本海側からの物資を得る手段を失いました。
そして文明5(1473)年3月18日、山名宗全が68歳で病死するに至り、西軍は精神的支柱を失いました。物資に加えて戦う意義も失ったといえます。
これ以降、西軍にいたはずの「南主(南朝皇族)」の動向が見えません。せっかく擁立した南主は、宗全が死去した後で追い払われたようです。結局正体は謎のままで、これ以降後南朝の活動は日本史上から完全に消えてしまいます。
宗全亡き後、西軍方で中心的な役割を担ったのは土岐成頼家臣の斎藤妙椿でした。
「東西の運不は持是院(妙椿のこと)の進退によるべし」
と言われるほどに、これ以降の戦はほとんど妙椿の指揮下で行われるようになるのです。
西軍が意気消沈し、降伏は目前かと思われたそのとき、なんと東軍もまた支柱を失いました。5月11日、細川勝元が43歳の若さで急死したのです。6歳の聡明丸が家督を継承したものの、東軍の中心人物として戦闘を指揮することは望めません。管領のなり手はなかなか見つからず、しばらく空席となりました。
和睦を望む諸将の利益を代弁し、中心となって動いてくれると期待されていた両雄が相次いで死去し、交渉は頓挫しました。残されたのは、少数ながら声が大きい和睦反対派である畠山義就(西軍)や赤松政則(東軍)らです。
これ以降、少なくとも京では戦はほとんど起こらなくなり、地方でのみずるずると続くことになります。
斎藤妙椿はかなりの大物ですが、高校日本史の教科書には登場しないようです。
