日本人の物語00708【鎌倉後期】92代伏見天皇(持明院統)
弘安10(1287)年。朝廷における持明院統(後深草上皇)と大覚寺統(亀山上皇)の対立に大きな進展がありました。
公家・西園寺実兼は以前より亀山上皇とそりが合わず、後深草上皇にばかり接近していたのですが、時は大覚寺統の天下で、亀山上皇が院政を布いていました。建治元(1275)年に後深草上皇の子・煕仁親王が立太子し、「いつかは皇位が持明院統に戻る」ということが示されましたが、それから12年が経っても譲位がなされる気配がありません。
実兼は幕府を味方につけることで、どうにか持明院統の世を取り戻そうと考え、平頼綱に頼み込みました。頼綱にとっても「安達泰盛と懇意であった亀山上皇を忌避したい」との意向があったため、両者の利害は一致しました。
10月12日、平頼綱の子・宗綱(むねつな)が上洛して西園寺邸を訪れ、
「皇太子が即位すべし。後深草院の院政あるべし」
と幕府の意向を伝えました。
これを伝え聞いた亀山上皇は、慌てて鎌倉に使者を派遣して交渉しようとしましたが、幕府方に交渉に応じる意志はありませんでした。やむなく10月21日、後宇多天皇は煕仁親王に譲位することとなりました。伏見天皇の誕生です。また、伏見天皇即位に伴い、その父である後深草上皇の院政が始まりました。
安達一族とよしみを結んでいた大覚寺統に対し、平頼綱とよしみを結んだ持明院統は、幕府の威を借りてやりたい放題に振る舞うようになります。
翌弘安11(1288)年2月に伏見天皇の子・胤仁親王(たねひとしんのう:後の後伏見天皇1288~1336)が産まれるのですが、正応2(1289)年4月25日、その胤仁親王が立太子となりました。2代連続で持明院統から天皇を出すという意思表示です。このときは、大覚寺統はもはや二度と天皇を出せないのではないかと絶望する声もあったようです。
また、持明院統は朝廷内の役職も自派で固めました。正応元(1288)年7月11日、伏見天皇は京極為兼(きょうごくためかね:1254~1332)を蔵人頭に登用しました。蔵人頭とは天皇の秘書のような役割を担います。
京極為兼は歌人として著名であり、「京極派」と呼ばれる一大歌派を築いた人物です。京極派は伝統的な和歌の決まり事を否定して言葉を自由に使うことを訴え、持明院統を中心に一世を風靡しました。また、伏見天皇は皇太子時代から京極為兼の和歌の指導を受け、歴代天皇の中でも指折りの歌人として知られています。
こうして平頼綱と結んだ持明院統の天下が始まります。
