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日本人の物語01238【室町/義満期】室町の職制 御一家

しばらく組織の仕組みみたいな話が続くので、少々退屈かもしれません。でも「家格の話が大好物」という歴史好きもいるので、一応取り上げます。

 ここで室町幕府の守護たちの家格について見ていきましょう。
 将軍に次ぐ権力者はもちろん管領ですが、実は管領よりも家格が高いのが「御一家」と呼ばれる吉良・渋川・石橋の三家でした。これらは足利家の庶流(分家)に当たり、鎌倉時代までは「足利」の苗字を名乗ることが許されていた家柄でしたが、尊氏が征夷大将軍に就任した頃から徐々に足利姓を名乗らずそれぞれの領地の名を名乗るようになったようです。
 将軍家の血筋が途絶えた際には将軍を出すことが期待されていたとの説もあり、いわば江戸時代の徳川御三家と同等の役割を担っていた可能性がありますが、結局将軍を出すことは最後までありませんでした。
〇吉良家
 三河国吉良荘(愛知県西尾市吉良町)を領地とする一族で、御一家の中でも最高の家格を与えられた一方、守護職は一切与えられませんでした。戦国時代になると徐々に領地が狭まり、徳川家臣となって江戸時代には高家(こうけ:儀式の段取りを司る役職)となります。赤穂浪士に斬られた吉良上野介義央が特に有名です。
〇渋川家
 上野国渋川郷(群馬県渋川市)を領地とする一族です。中先代の乱で戦死した渋川義季の娘・幸子が足利義詮の正室となり、絶大な権力を手にしました。幸子の口利きにより甥の義行が九州探題に据えられ、一時は備前・備中などの守護職も得られましたが、義行が九州平定でほとんど活躍せず終わったこともあり、徐々に没落していきます。
〇石橋家
 苗字の由来は下野国石橋(栃木県下野市石橋)なのか、三河国設楽郡石橋(愛知県豊田市足助町石橋)なのか判然としません。
 石橋和義は尊氏の家臣として活躍していましたが、斯波高経と佐々木道誉の対立に際して道誉の味方をした結果、斯波を敵に回してしまい若狭守護を解任されました。
 これら三つの家は、管領になれなかったのみならず、守護大名に成長することもできませんでした。渋川家・石橋家は当初はいくつかの守護職にありつけたものの、他の有力な守護大名が現れるとその地位を追われ、室町後期には一国の守護にもなれないまま戦国時代を迎え、江戸時代まで生き残れたのは結局吉良家だけでした。
 しかし彼らは管領よりも高い家格を誇り、室町幕府の実施する各種儀礼等においては上席に位置付けられていました。領地や権力よりも家格を選んだ者たちと言えるかもしれません。

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