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日本人の物語00196【飛鳥】壬申の乱 戦後処理*

 近江大津宮を追われた弘文天皇は、山前(やまさき:滋賀県東近江市)に逃亡し、天智天皇11(672)年7月23日に自決しました。
 大海人皇子軍は、弘文天皇の死体を発見し、その首級を野上(岐阜県関ヶ原町)にいる大海人皇子のところへ差し出しました。ちなみに歴代天皇のうち、首を切断されたのは弘文天皇だけです。
 その後、弘文天皇の子である与多王(よたのおおきみ)は、父を弔うため自害の地に三井寺(みいでら)を建立しました。山前で自害したといわれているのに、なぜか三井寺は滋賀県大津市内にあります。この三井寺は後に園城寺(おんじょうじ)と改名され、天台宗の重要寺院となっていきます。現在も大津市の主要観光スポットの一つです。
 戦闘終結後、近江政府軍の要人たちが裁かれることとなりました。中臣金は斬首。蘇我赤兄と巨勢人は流罪でした。斬首が一人しか出なかったのは、比較的寛大な処置だったといえるでしょう。
 さて、古代史上最大の内乱、壬申の乱はいかなる意味を持つ戦いだったのでしょう。
 まず、多くの豪族が大海人皇子方に味方したということは、大化の改新後の天智天皇の政治に不満を持った者が多かったことを意味していると思われます。特に、
・天皇家への権力集中
・白村江での敗北など外交政策の失敗
・大津宮遷都
の評判が良くなかったということでしょう。
 独裁者たる天智天皇が生きている間は、粛清を恐れて不満を口にする者はいなかったわけですが、天智天皇が崩御するや否や、その路線の継承者たる弘文天皇に対してみんなが反旗を翻したというわけです。
 してみると、天智天皇の政治というのは結局のところ不満ばかりを生んだように思えますが、一方で天智天皇の正の功績もあったと考えられます。
 まず、豪族の権限を削ぎ落とし、天皇に権力を集中させたことについては、良かった面もあると思います。古代の倭国が、豪族の連合政権という性格を保持したままでいたとしたら、国家の危機に際して重大な決断ができず、烏合の衆となっていたことでしょう。また、唐をならって近江令という行政法を作ったことや、班田収受という税制を始めたことも、強い国家を作る上で必要なことでした。
 さらに、飛鳥を離れて近江に遷都したことも先見の明があったと思います。豪族にとっては、住み慣れた飛鳥を離れることは辛かったでしょうが、飛鳥はやはり交通の便も悪く、狭苦しく、宗教的な権威を感じる地ではあっても巨大な国家の首都にはなり得ない場所なのです。
 天智天皇は功罪併せ持つ改革者だったとまとめられるでしょう。

大友皇子自害の地に立つ三井寺(園城寺)。2025年9月27日撮影。
大友皇子の位牌が祀られている旨が紹介されている。2025年9月27日撮影。

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