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日本人の物語01457【室町/西国/大乱前夜】成身院光宣の敗走

経覚と尋尊もかなり個性的ですが、一番個性的なのは成身院光宣かもですね。

【⑤大和国における旧南朝方と旧北朝方の争い 続き】
 南都七大寺占拠という威嚇行動で圧力をかけられた経覚は、やむなく光宣の代官職を認めざるを得ませんでした。
 このとき、経覚とも光宣とも異なる第三の勢力が、関務代官職の座を狙っていました。光宣に擁立されながら、その後光宣と仲違いして当主の座を追われた筒井順弘です。
 順弘は立野氏とともに光宣を攻める準備をしていましたが、その計画は未然に露見してしまいます。計画を知った筒井順永・光宣は、嘉吉2(1442)年11月11日に順弘の立て籠もる眉間寺(奈良県奈良市)を攻撃しました。勝者となった光宣は、興福寺の順弘派7名を処罰しました。
 敗走した順弘派7名はかつての敵方であった豊田頼英(とよだらいえい:1403~1490)を頼り、順弘自身は同じくかつての敵方であった越智家栄の援助を得ました。つまり経覚派と結びついたのです。
 こうして、当初は北朝方と南朝方の戦いだったのが、いつの間にか経覚と光宣という個性の強い僧2人の戦いに変容していきました。まとめるとこうです。
北朝方→義教派→光宣派:  成身院光宣、筒井順永
南朝方→反義教派→経覚派: 大乗院経覚、畠山持国、筒井順弘、越智氏・豊田氏・箸尾氏
 越智・豊田という強大な味方をつけた筒井順弘は、難なく筒井城(奈良県大和郡山市)を奪回しました。これでようやく、光宣の傀儡ではない順弘自身の政権を運営できそうです。
 ところが光宣は恐るべき男でした。筒井城奪回から間もない嘉吉3(1443)年1月、城主・順弘はなんと家臣に殺害されてしまいます。詳細を物語る史料がありませんが、明らかに光宣の差し金でしょう。合戦ではなく暗殺という手段で敵の政権を転覆するとは、僧らしからぬ戦い方です。
 経覚は怒り、管領畠山持国の承諾を得て
・豊田頼英
・古市胤仙(ふるいちいんせん:?~1453)
・小泉重弘(こいずみしげひろ:?~1445)
といった旧南朝方の主力軍を送り込みます。
 大軍勢を敵に回した光宣は9月には筒井城に逃れましたが、その筒井城も陥落し、河内へと逃亡していきました。経覚は筒井氏庶流の筒井実順(つついさねまさ)を城主に据え、かくして大和国の内紛は経覚の完全勝利かと思われました。
 しかし成身院光宣は諦めの悪い男でした。筒井順永とともに大和国内に潜伏し、筒井城奪回の機会を虎視眈々と窺います。経覚と光宣の戦いはまだまだ続きます。

大和国は寺院勢力同士の戦が多いですね。

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