日本人の物語01318【室町/義持期】額田城落城
今回から5代将軍義量の時代になるのですが、義量には何らの実権はなく義持が最高権力者であり続けたので、チャプター名は「義持期」のままで行きます。
常陸では依然として
・小栗城に立て籠もる小栗満重
・額田城に立て籠もる山入祐義
らによる持氏に対する反乱が続いています。いや、幕府はむしろ山入家を支持していますから、これを「山入による持氏への反乱」とみるか、「持氏による幕府への反乱」とみるかは難しいところです。
応永30(1423)年1月中旬、持氏の命を受けた千秋上杉定頼らが小栗城を攻めますが、なかなか落ちません。
持氏の幕府との関係はますます悪化しています。3月9日に義持は後小松上皇に「将軍職を義量に譲りたい」と申し出て、3月18日に義量に将軍宣下がなされたのですが、このとき鎌倉府が祝賀の使節を送った記録がありません。もはや儀礼的な挨拶すらもしない仲になってしまったようです。
余談ですが、将軍交代を機に後小松上皇は改元してはどうかと幕府方に打診したのですが、義持はこれを辞退しました。善意を踏みにじられたと感じた後小松上皇はこれを恨んだらしく、これ以降幕府に冷たくなっていきます。
3月21日にはやっと額田城の戦線が動きました。既に山入一族は額田城から国安城に転戦していたので、額田城を守るのは額田義亮ら譜代の兵たちでしたが、長期の籠城戦で士気が低下しているのを見てとった額田義亮は、リスクを冒して討って出ることを決めたのです。
額田軍は攻め手の千秋上杉定頼軍と入り乱れての乱戦となりました。上杉方の烟田幹胤(かまたみきたね)が額田義亮の馬の首を槍先で叩き、義亮が落馬したところを討ち取りました。
大将を失った額田城は、その日のうちに落城しました。額田は攻め手の側で活躍した小野崎通胤(おのざきみちたね)に与えられました。
額田城落城と同じ3月21日。京では将軍義持がちょっとしたトラブルを起こしていました。一条兼良(いちじょうかねら:1402~1481)が和歌集の奥書に、自らの職名を「柳営」と書いたことに義持が噛みついたのです。
兼良は左近衛中将だったので、その唐名として「柳営」と書いたつもりでしたが、義持は
「これは征夷大将軍に与えられる号ではないか」
と言って怒り出したと記録されています。恐らく一条兼良の方が正しく、義持の勘違いなのでしょうが、義持は息子の権威を高めることに敏感になっているようです。
今回初登場した一条兼良は、古典研究で活躍した人物として日本史の教科書にも載っています。
