日本人の物語01258【室町/義満期】第一次伊達政宗の乱と稲村公方
伊達政宗登場。といってもあの伊達政宗ではありません。
幕府は義弘に呼応して挙兵しようとした鎌倉公方満兼の処分について検討していましたが、それどころではなくなりました。応永の乱終結後まもなく、東北で伊達政宗(だてまさむね:1353~1405)が反乱を起こしたのです。ここからは伊達政宗の乱について経緯を語っていきましょう。
応永の乱直前の応永6(1399)年7月末、満兼は弟の満貞(みつさだ:1390~1439)を稲村(福島県須賀川市)に派遣し、奥州の監視に当たらせていました。満貞は「稲村公方」と呼ばれるようになりました。
かつて2代鎌倉公方・足利氏満は領土を次々と増やすべく小山家や小田家をつぶしていきましたが、稲村公方満貞もまた野心家でした。置賜(おきたま:山形県米沢市)を本拠地とする伊達家に対し、領土を割譲するよう要求したのです。
このときの伊達家当主は政宗でした。伊達政宗といえば「独眼竜」の異名を持ったあの有名な戦国武将を想像される方が多いでしょうが、ここに登場する伊達政宗はその8代祖先に当たる同名の別人です。
伊達政宗は出羽国長井北条(山形県長井市)の三十三郷の領地を差し出そうとしましたが、満貞からの回答は「規模が足りない」というものでした。このような理不尽な要求に際限なく応じていては、領地や領民を守れません。伊達政宗は周辺に住む有力氏族に呼びかけ、蘆名満盛(あしなみつもり)らを味方につけて挙兵しました。第一次伊達政宗の乱の始まりです。
応永7(1400)年3月8日。稲村公方満貞は、伊達政宗・蘆名満盛を討伐するよう配下の結城満朝に命じました。
伊達政宗の呼びかけに対し、予想以上の大物も呼応しました。元奥州管領・大崎詮持(おおさきあきもち:?~1400)です。大崎家は斯波高経の弟・家兼が奥州管領に任命されて以来(01084回参照)、2代直持、3代詮持が続けて奥州管領を務めていました。詮持は文中3/応安7(1374)年には畠山国詮(はたけやまくにあき)の反乱を鎮圧するなど足利家のために尽くしてきたのに、突然やって来た稲村公方とやらに権限を奪われるのが我慢ならなかったのでしょう。ちなみにこの頃から「奥州管領」は「奥州探題」の名に改められます。
反乱開始時は鎌倉府に詰めていた大崎詮持は、9月に鎌倉を出奔し、伊達政宗に加担すべく陸奥へと向かいました。しかし領地の大崎(宮城県大崎市)に向かう途中で、敵・結城満朝の領地を通過する必要があります。当然、満朝は通すまいとして兵を用意させました。
結局、大崎詮持は陸奥田村荘大越(福島県田村市)で結城軍に囲まれ、自害を遂げました。
大崎詮持が敗死したため大崎家との連携は実現せず、やむなく伊達政宗は10月に降伏しました。とりあえず第一次伊達政宗の乱はこれにて終結しました。
