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日本人の物語01087【南北朝中期】尊氏の評価*

やはり大日本帝国時代の皇国史観というのが私には理解できません。北朝の子孫たる明治~昭和天皇に仕えながら、なぜ北朝を打ち立てた足利尊氏を逆賊扱いするのでしょう。

 前述したとおり、江戸時代の水戸藩では後醍醐天皇を仰ぎ奉り、尊氏を極悪人とする歴史観が構築されました(00902回参照)。その水戸藩の歴史観が「水戸学」として様々な藩に広がり、それが幕末に尊王攘夷運動と結びついて倒幕運動の引き金となりました。
 これにより、大日本帝国における歴史教育は、尊氏を極悪人とする歴史観を子供たちに刷り込むものとなってしまいました。
 尊氏の子孫で明治生まれの足利惇氏(あしかがあつうじ:1901~1983)氏は、少年時代の歴史の授業についてこう回想しています。
 授業が南北朝時代に差し掛かると、惇氏氏は教官から呼ばれ、
「今度の授業から『建武の中興』に入り、足利尊氏の名が出てくる。尊氏は朝廷に歯向かった逆賊であるけれども、君は別にそれに関係があるわけではないから気を落とさぬように」
と言われました。それでもいざ授業が始まると、教官の口から「逆賊尊氏」という名が出てくるたび、クラスメイトの刺すような視線が痛かったというのです。惇氏氏は当時の雰囲気について
「いくら懺悔しても許されない罪が体内の血液のようにしつこく、自分に覆いかぶさっている気持ちでいた」
と回顧しています。
 また、尊氏の墓がある鎌倉の長寿寺では、大日本帝国時代には遠足にやって来た小学生たちが
「この憎たらしい尊氏め!」
といって尊氏の墓石を蹴り倒すことが絶えなかったといいます。しかも引率の先生はそれを注意するどころか、微笑んで傍観していたというのです。
 栃木県足利市の住民たちもひどい目に遭っていました。足利市出身の子供たちが東京に働きに出ると、「逆賊の土地っ子」と呼ばれていじめを受けたといいます。さらに江戸時代以来の伝統を持つ足利名産の絹織物は「逆賊織」などと呼ばれ、蔑まれていました。
 中世足利家が居城として用い、その後は足利家の菩提寺となった「鑁阿寺(ばんなじ)」も、今でこそ日本百名城の一つに指定されていますが、大日本帝国時代には修理もされず荒れ放題だったといいます。
 このように、尊氏は長らく不当な評価を受けてきたわけで、戦後になってようやく冷静な議論ができる土台が固まってきたといえます。それでもなお、南北朝時代は登場人物が多すぎて複雑すぎる不人気な時代なので、まだまだ尊氏の魅力が十分に伝わっていないようです。今後、さらに多くのファンを獲得したいものです。

足利市観光協会のキャラクター、たかうじ君。足利学校の門を頭にかぶっている。2024年3月23日撮影。
鑁阿寺のそばにある釜飯屋「銀釜」のフタが、たまたまなのか狙ってなのか足利家の家紋になっている。2024年3月23日撮影。

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