日本人の物語00169【飛鳥】小野妹子の派遣
さて、法隆寺建立と同じ推古天皇15(607)年の7月3日、厩戸皇子は小野妹子(おののいもこ)を隋に派遣しました。
小野妹子が隋の第2代皇帝煬帝(ようだい:569~618)に渡した国書は有名です。「日出づる国の天子、日没する国の天子に致す。つつがなきや」で始まるものです。この国書が、煬帝をひどく怒らせたといいます。
どこに怒ったのか。2つの説があります。
1つは、隋を「日が没する国」と表現したこと。まるで勢いが下り坂であるかのように聞こえますよね。まあ隋は煬帝の時代に滅ぶわけですから事実下り坂なのですが。この一節は倭国が隋に比べて東側に位置することを意味しただけで、他意はないとも思われます。
もう1つは、倭国の天皇のことを「天子」と表現したこと。中国にとって「天子」とは天下に一人しかいない皇帝を意味する尊称で、これを自称したことが逆鱗に触れたというわけです。厩戸皇子はアジア随一の大国、隋に対して大胆にも対等な国交を志向したようです。
煬帝は、「蛮夷の書、甚だ無礼なり。以て聞するなかれ」と述べました。
厩戸皇子の国書に怒った煬帝でしたが、これを無視したわけではなく、なんと答礼として裴世清(はいせいせい)という使者を派遣しました。百済との関係が悪化していたため、ここで倭国を敵に回すのは得策ではないと判断したのでしょう。
この裴世清の持参した返書の冒頭が「皇帝、倭皇に問う」となっていました。これを見た厩戸皇子は、「隋では皇帝という言葉を他国に使うことができなかったため、やむなく倭皇と書いてあるようだ。しかし倭王ではなく倭皇と書いているということは、倭国を相当重んじているようだ」と述べたといいます。
「国王」と「皇帝」には違いがあります。国王というのはある地域を治める君主であり、皇帝とは諸国の国王を治めるトップという意味です。倭国の天皇に対して「倭王」ではなく「倭皇」と呼びかけたわけですから、煬帝は天皇を臣下としてではなく、他国のトップとして扱ったといえます。
しかしながら、このときの国書について、隋の公式歴史書である『隋書』では「皇帝、倭王に問う」となっています。こちらでは倭皇ではなく倭王と書かれているのです。裴世清が国書を改ざんし、倭を怒らせないように工夫した可能性が考えられます。
一方、小野妹子は煬帝から別途返書を渡されていたのですが、途上で百済の民に盗まれたと主張して、持ち帰ってきませんでした。他国に派遣されて、相手国のトップの返書をなくしたというわけですから、本来ならば打ち首ものではないでしょうか。
ところが、推古天皇は「国賓が来ている最中なので、妹子の失態は問わない」と言って妹子の責任を追及しませんでした。これも裏事情を何かと詮索されるのですが、「返書があまりにも無礼であったため、推古天皇と相談の上、受け取らなかったことにした」との説があります。いかにもありそうなことです。
