日本人の物語01435【第一尚氏】懐機の活躍
戦乱と戦乱の間の短い安定期の話です。この安定が続けばよかったのですが。
宣徳4(1429)年に尚巴志が琉球を統一した後、しばらくは平和な時代が続きました。尚巴志がかつての首都・浦添とは別に首里城を築き、那覇港を整備して貿易立国に務めたことは前述のとおりです。
尚巴志が那覇港を選んだのは、沖縄本島の中で数少ない大型船の出入りできる水深の深い入り江だったためです。この那覇港の整備により、より大規模な貿易が可能となりました。
尚巴志はそれまでの明・日本との交易に加えて、シャム(現在のタイ)、パレンバン(現在のインドネシアのスマトラ島)と結ぶ航路を開拓し、次々と交易船を派遣しました。これら東南アジアから手に入れた品物は、琉球ではほとんど消費されずに明などの外国へ転売されました。当時、明が民間レベルの貿易を禁じる「海禁政策」を取っていたこともあり、明にとって琉球経由でしか得られない品々も多かったため、琉球はこうした中継貿易で莫大な利益を上げました。
この頃、尚巴志が特に頼りにしたのが国相(こくしょう)というナンバー2の地位を占めた懐機でした。懐機は明人でありながら約50年に渡って5代の王に仕え、琉球王を支え続けました。特に、港や城の整備工事について、明から最新の技術を持ち寄って指揮を執ったのは懐機でした。懐機が首里城の外苑に作った「龍潭(りゅうたん)」と呼ばれる池は今も残っています。
懐機を始めとする明人たちのために、琉球王国は居留地を設けていました。当時は「クニンダ」と呼ばれたその居留地は、現在は「久米村」と呼ばれています。懐機は明人ではありますが、久米村で産まれた移民2世又は3世との説もあります。
懐機を登用して多くの成果を上げた2代国王・尚巴志は正統4(1439)年4月20日に死去しました。後を継いだのは次男の尚忠です。尚忠は尚巴志が北山王国を滅ぼした後、今帰仁城の監守として琉球北部を治めた人物でしたね。
しかし、その3代尚忠も僅か4年の在位で、正統9(1444)年10月24日に死去してしまいます。翌年に尚忠の子の尚思達(しょうしたつ:1408~1449)が4代国王に即位しますが、これまた在位4年で正統14(1449)年10月13日に、子を持たぬまま死去してしまいます。
国王が短期間で次々と代わる中、懐機は変わらず国王を支え続けました。懐機は土木工事のみならず外交文書も自らの名で発出するなど、先代の国相である王茂よりも大きな権限を持っていたことが分かっています。
トップの交代が激しいですね。王国のトップはできるだけ長生きしてたくさん子を作る必要がありますね。
