日本人の物語00721【鎌倉後期】執権の短期交代
前述のとおり、9代貞時は子の高時が7歳のとき病没してしまいます。高時を後見すべきは、内管領・長崎円喜と有力御家人・安達時顕です。
元々貞時は、従弟の北条師時こそを中継ぎとして意識し、10代執権に就任させました。師時は私心なく貞時に仕え、子への継承を後押ししてくれると期待していたのでしょう。
ところが師時は短命で、貞時よりも早く死去してしまったわけです。
やむなく貞時は、11代執権に大仏宗宣を就任させます。しかしこの宗宣は、貞時とは険悪だったと推察されます。宗宣は嘉元の乱で貞時の腹心であった内管領・北条宗方を誅殺した人物であり、このことからすると得宗貞時を牽制するほどの実力を持っていたと考えられるのです。
しかし北条は短命な人物の多い一族でした。宗宣もまた、正和元(1312)年6月2日、病のため執権職を北条煕時(ほうじょうひろとき:1279~1315)に譲って引退することとなりました。その後6月12日には死去してしまいます。
煕時は7代執権・北条政村の曽孫に当たり、当時33歳でした。しかしいかにも軽量級といった人事です。煕時には宗宣ほどの発言権はなく、実権は御内人へと移っていきます。
当時、御内人筆頭たる内管領は長崎円喜でした。円喜は控えめな父・光綱と違ってめきめきと実力を伸ばし、やがては幕府の最高権力者となって行きました。
円喜に対抗する力を持たないまま、11代執権北条煕時は正和4(1315)年7月12日に病に倒れ、執権職を普恩寺基時(ふおんじもととき:1286~1333)に譲りました。普恩寺基時は北条義時の三男・極楽寺重時の曽孫に当たり、普恩寺という寺を創建したことから普恩寺姓を名乗った人物です。
このように、執権は短期間で10代師時、11代宗宣、12代熙時、13代基時と次々に病気交代し、執権の地位・権力は低下していきました。それに反比例するように、内管領・長崎円喜の権力が強まっていったのです。
得宗家の政権移譲をまとめると次のとおりです。
・時頼から時宗への政権移譲は、赤橋長時・北条政村が誠実に実行した。
・時宗から貞時への政権移譲は、前半期には安達泰盛が誠実に実行し、後半期にはなされなかった。得宗権限を奪った平頼綱を、貞時は自力で倒した。
・貞時から高時への政権移譲は、当初から誰一人として真面目に行わず、それどころか執権はコロコロ変わり傀儡となっていった。得宗権限を奪った長崎円喜に高時は対抗できなかった。
