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日本人の物語00056【弥生】榎一雄と宮崎康平

 戦後、邪馬台国論争に新たな一石を投じたのは榎一雄(えのきかずお:1913~1989)でした。榎は、『魏志倭人伝』が「距離→国名」の順に記述している箇所と、「国名→距離」の順に記述している箇所とが混じっていることに注目しました。
「始度一海千餘里至対海國」
「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」
「又渡一海千餘里至末盧國」
「東南陸行五百里至伊都國」
 伊都国までは、距離を先に書いた後に国名が出てきます。しかし、伊都国以降の道程は、国名が先に述べられ、その後に距離が述べられているのです。
「東南至奴國百里」
「東行至不彌國百里」
「南至投馬國水行二十日」
「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」
 榎は、「順序が異なるということは意味合いも異なる」と考えました。伊都国までは「○里進むと○国に着いた」という意味で、それ以降は伊都国を基準として「(伊都国から)○国までは○里である」という意味だというのです。伊都国からあちこちの方向へ放射的に線が伸びるので、榎の説は「放射説」と呼ばれています。
・伊都国から奴国まで100里。
・伊都国から不弥国まで100里。
・伊都国から投馬国まで水行20日。
・伊都国から邪馬台国まで水行10日陸行1月。
 これなら距離が短縮され、邪馬台国が九州にあると捉えることができるのではないか。榎はそう主張し、投馬国が宮崎県であると主張したのですが、「福岡県内にあるはずの伊都国から投馬国(宮崎県)まで水行20日はおかしい」との批判もあります。
 榎の次に邪馬台国ブームを築いたのは、宮崎康平(みやざきこうへい:1917~1980)でした。宮崎は盲目となった後、独学で歴史学を学び、昭和41(1966)年に『まぼろしの邪馬台国』を出版しました。これがベストセラーとなったのです。
 宮崎が謎解きのヒントにしたのは、国名でした。『魏志倭人伝』には、邪馬台国までのプロセスに現れる国以外にも、多数の国々が出てきます。といっても、国に関する情報は何もなく、ひたすら国名だけが羅列されているのです。宮崎は盲目ならではの観点で、これらの国々の読み方(発音)に注目し、現在の地名に近いものを見つけ出し、国の場所を比定していきました。その結果、邪馬台国は長崎県島原半島にあると主張したのです。
 しかし宮崎の方法に対しては、「似たような読み方の地名ならどこにでも探し出せるからあまり有意義な方法ではない」との反論もあります。

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