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日本人の物語01233【南北朝最末期】明徳の合一*

やっと南北朝が統一されます。長かったですねえ。義満としては、本来は細川頼之にこそこの大事業を託したかったことでしょう。頼之も南北朝合一を見ずして亡くなったのは無念だったでしょうね。

 最有力守護・山名家の本家を滅ぼし、政敵である斯波派に大打撃を与えたのを見届けたところで、元中9/明徳3(1392)年3月2日、細川頼之が63歳で病没しました。この頃、頼之は義満の命を受けて南朝との和平交渉を担当していましたが、その仕事は新たに和泉・紀伊守護となった大内義弘が引き継ぐこととなりました。
 義満にとって南北朝を合一することは祖父・父の代から引き継いだ大事業でした。そもそも南朝方となかなか講和ができないのは、幕府内で失脚した守護が次々と南朝方に降り、そのたびに滅亡寸前の南朝が息を吹き返してしまうからでした。
 このたびも南朝方は山名氏清・満幸に錦の御旗を下賜していたのですが、その山名が敗れ、最後の頼みの綱がなくなったわけです。南朝方としてもこれで諦めがつき、降伏する心の準備ができたところだったでしょう。
 10月13日、義満は大内義弘を通して南朝方に対し、合体の3条件を示しました。
①南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を引き渡し、「譲国の儀」を行う。
 本物の三種の神器は南朝が持っていたわけですから、これまで正統な天皇は南朝方であったことを認めるわけです。後醍醐天皇が吉野に出奔した瞬間から本物の神器を持っていたのか、はたまた第四次京都合戦で光厳上皇・崇光天皇らが南朝方に拉致されたときから本物の神器が南朝方に移ったのかは分かりませんが、いずれにせよ現時点では南朝方が正統だということです。
②皇位継承については今後は両統交互とする。
 持明院統と大覚寺統が交互に即位していた鎌倉時代後期の状況に戻るということです。
③皇室領荘園は北朝のもの、国衙領荘園は南朝のものとする。
 つまり朝廷に属する荘園を2つに分け、持明院統と大覚寺統で分け合うということです。
 ざっと見る限り、南朝にとって悪い話ではありません。一旦は皇位は北朝(持明院統)が占めることとなりますが、その後は南朝方(大覚寺統)も即位できるわけですし、何より荘園の分け前も得られるのです。
 なお、この条件は北朝方の皇族・公卿らにあらかじめ諮られたのか、記録がありません。皇位を交互に継ぐなどの条件はあらかじめ北朝の天皇にも了解をとる必要があると思うのですが、そのあたりが議論された形跡がないのです。
 南朝方は10月15日に陣定を開き、この「御合体」を受け入れることを決定しました。これを「明徳の合一」といいます。後亀山天皇を始めとする南朝方の一同は、これらの条件がほとんど反故にされるとは未だ知る由もありません。

愛知県岡崎市にある細川家の菩提寺、蓮性院。中央にあるのが細川頼之の墓。2024年6月30日撮影。
蓮性院の中には細川家の系図もあった。また、細川護煕が来訪した際の記念写真も。2024年6月30日撮影。

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