日本人の物語00617【鎌倉前期】渡宋の夢
実朝と御家人たちの間の温度差はさらに深まっていきます。
建保4(1216)年6月15日。実朝は宋人の陳和卿(ちんなけい)と面会しました。陳和卿は宋から来日した工人で、源平合戦で焼失した東大寺の大仏を再建するために活躍した人物です。
陳和卿は実朝を見ると突然涙を流し始め、実朝を困惑させます。実朝が理由を尋ねると、陳和卿は
「あなたは前世において、宋の医王山の長老でした。私はその弟子だったのです」
と述べました。実朝はひどく驚き、
「誰にも話したことはなかったが、6年前に夢の中で全く同じことを言われたことがある」
と言い出しました。
その後、11月24日になって、実朝は
「宋に渡り医王山に参拝したい」
と言って、陳和卿に唐船の建造を命じました。
常識的に、鎌倉幕府の将軍が政務を放り出して唐に渡るなどできるはずがありません。義時・広元は必死に止めましたが、実朝は聞く耳を持たず、造船は決定されてしまいました。
陳和卿が造った船は建保5(1217)年4月17日に完成し、由比ヶ浜の浦に浮かべようとしますが、上手く浮かびませんでした。吾妻鏡には
「このあたりの地形は大規模な船を浮かべられるものではなかった」
とありますから、設計が悪かったのではなく、浮かべた場所が悪かったようです。宋に渡ることが叶わず、実朝は意気消沈したでしょうが、御家人たちは安堵したことでしょう。
しかし御家人たちの懸念をよそに実朝の昇進は続き、建保6(1218)年に入ると、
・建保6(1218)年1月13日: 権大納言
・同年3月6日: 左近衛大将
・同年10月9日: 内大臣
・同年12月2日: 右大臣
と、一年のうちに次々と官職を駆け上がっていきます。
右大臣となった実朝は、宮中では「鎌倉右大臣」と呼ばれるようになり、百人一首にもこの名で入選しています。このまま生きていれば、おそらく左大臣、太政大臣と昇りつめたことでしょう。
官職の等級が分不相応に高くなりすぎて負担が増し,かえって不幸な目に合うことを「官打ち」といいますが、実朝はその好例といえるでしょう。
