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日本人の物語00396【平安後期】美福門院得子登場

 さて、鳥羽上皇の怨嗟を一身に受けた「叔父子」の崇徳天皇は、宮中で孤立していました。
 罪作りな母・待賢門院璋子はというと、その後
・通仁親王(みちひとしんのう:1124~1129)
・君仁親王(きみひとしんのう:1125~1143)
・統子内親王(むねこないしんのう:1126~1189)
・雅仁親王(まさひとしんのう:後の後白河天皇:1127~1192)
と、次々と鳥羽上皇の子らを産んでいますから、おそらく鳥羽上皇の怒りは白河法皇と崇徳天皇にだけ向けられ、璋子に対しては寵愛していたものとみられます。
 そんな宮中の空気をさらにドロドロと悪化させる女御が、新たに入内してくることとなります。長承2(1133)年8月19日、藤原長実(ふじわらのながざね:1075~1133)という公卿が死去したのですが、この長実には藤原得子(ふじわらのなりこ:1117~1160)という娘がいました。後に「美福門院(びふくもんいん)」の号を名乗ることとなる女性です。
 長実の得子に対するかわいがりようは異常なほどでした。「ただ人にはえ許さじ」(並の人には嫁がせない)と言って、嫁ぎ先をなかなか決められないままに、得子は16歳になり、自分は死期を迎えてしまったわけです。
 長実にとっては娘の得子の嫁ぎ先が最大の懸念であり、死に当たって、最も高貴な人物に得子を嫁がせることを決めました。鳥羽上皇に入内させることに決めたのです。
 こうして鳥羽上皇のもとに入内した得子は、寵愛を受けるようになりました。そこで、おそらく得子は鳥羽上皇から祖父・白河の非道な行為や、璋子の背信などを聞いたのでしょう。得子は璋子を毛嫌いするようになります。
 保延5(1139)年5月18日。得子は、鳥羽上皇の皇子・躰仁親王(なりひとしんのう:後の近衛天皇:1139~1155)を出産しました。
 さて、3歳8ヶ月で即位した崇徳天皇は、このとき既に20歳になっていました。そろそろ皇太子を決めなければなりません。しかし、崇徳天皇と中宮・藤原聖子(ふじわらのきよこ:1122~1182)との間には子がありませんでしたし、かといって鳥羽上皇の子らは
・次男通仁は生まれつき盲目
・三男君仁は筋骨に障害があり歩行困難
・四男雅仁は、声が枯れるまで一日中今様を歌い続けるなど奇行が多く、暗愚と評判
という有様であり、皇太子に据えるには支障がありました。
 そこで得子は鳥羽上皇に対し、自分が産んだ躰仁親王を立太子するよう迫ります。鳥羽上皇は得子のかわいさあまりに、6月27日、生後1ヶ月の躰仁親王を崇徳天皇の養子と定め、8月17日には皇太子に据えたのです。
 こうして、得子の権勢は否が応にも高まっていきました。

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