見出し画像

日本人の物語01316【室町/義持期】山入与義憤死

結局、義持と持氏は戦うのかどうなのか、なかなかはっきりしませんね。

 常陸国で相次いで起こった反乱を見た持氏は、その原因と考えられる山入与義を除こうと決意しました。
 応永29(1422)年閏10月。持氏は関東管領・上杉憲実の名で国安城(茨城県常陸太田市)の山入与義に書状を送りました。
「御不審のかどあり、公方直々に相尋ねたき儀之有、云々」
という文書です。憲実は当時13歳の少年に過ぎないので、これが持氏の意志で発出されたことは明らかでした。
 与義の次男・山入祐義(やまいりすけよし)は心配して引き止めますが、与義は意に介さず鎌倉に旅立っていきました。閏10月6日に国安城を出発し、12日に鎌倉に到着したといいます。到着後すぐに持氏を訪問したものの会ってもらえず、やむなくその日の夜は鎌倉内の佐竹屋敷に滞在しました。
 翌日未明、持氏の命を受けた榎下上杉憲直(えのしたうえすぎのりなお:?~1438)が佐竹屋敷を襲撃しました。ちなみに榎下上杉憲直は上杉一族ですが、榎下城(横浜市緑区)を拠点としたので榎下姓で呼ばれることが多い人物です。
 まさか鎌倉公方から騙し討ちに遭うとは思っていなかった与義は完全に油断しており、一切武装していませんでした。
「あの青びょうたんに謀られた」(佐竹家文書に残る言葉です)
と悔しがりながら頼朝法華堂に逃げ込み、そこで郎党ともども自刃しました。
 頼朝法華堂とは頼朝の墓所があるところであり、鎌倉中期の宝治合戦でも三浦一族が自刃の場所として選んだところです(00665回参照)。自らの正当性をアピールしながら死んでいく場として最適なのかもしれません。
 山入祐義は、父の横死を知って額田城(茨城県那珂市)に立て籠もります。11月には持氏の命を受けた佐竹義人らが額田城を攻めますが、なかなか攻略できません。
 山入与義は将軍義持が常陸守護に推薦していた人物でしたから、その与義を殺害するということは即ち持氏が将軍に反逆したことを意味していました。満済の日記によると、完全に面目をつぶされた義持は
「言語道断。粗忽の沙汰か」
と激怒していたといいます。持氏は弁明のための使者を京に派遣しますが、義持はその使者に会わないまま、半年間待たせた挙句追い返してしまいました。
 義持と持氏の関係はもはや一触即発です。

今回登場する「頼朝法華堂」は鎌倉駅から徒歩20分くらいで行けます。石段を上らないといけないので、あまり暑くない季節に行くと良いでしょう。秋~冬は落ち葉で滑りやすいので要注意です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集