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日本人の物語00350【平安中期】敦明親王の隠居

 寛仁元(1017)年。道長は摂政の職を子の頼通に譲りました。
 それから間もなく、三条上皇が崩御しました。乱闘事件を起こすなどして評判を失っていた皇太子・敦明親王にとっては大きな後ろ盾を失ったことになります。
 この後、敦明親王はなんと自ら皇太子を辞退し、「小一条院」の号を賜って隠居を始めました。母の娍子は激怒しましたが、手遅れでした。
 この敦明親王の隠居は、道長の陰謀だとする説もあります。確かに道長は敦明親王を嫌っていましたし、せっかく外戚となった一条と後一条の系統を継続させたいでしょうから、三条天皇の系統はここで絶やしておきたいことでしょう。
 しかし道長は、「敦明親王に報いたい」として、娘の寛子(ひろこ:999~1025)を嫁がせることとしました。もう天皇になる可能性のない皇子のところに娘を嫁がせたのはなぜなのでしょうか。
 どうも記録を見ていく限り、道長という人物は政敵を徹底的にやり込める豪腕さを持つ一方、一旦負けを認めた相手に対しては優しく手を差し伸べる一面を持っていたようです。伊周の葬儀に際して祈祷師を派遣したときと同様、今回も隠居した敦明親王に対して手を差し伸べたのですね。敦明親王は道長の恩情に余程ほだされたのか、なんと妃の延子と幼い敦貞親王を捨て、寛子の元へ行ってしまいます。
 藤原顕光としては、せっかく娘を皇太子に嫁がせていたのに、外祖父になれるチャンスも失い、娘は捨てられてしまったわけです。
 顕光は普段から評判の悪い人物でしたから、顕光はここぞとばかりに攻撃され、嘲笑されました。顕光は
「実資に嘲弄された」
として藤原実資を呪詛しますが、実資は
「顕光を嘲弄するのは誰でもやっていることなのに」
と日記に書き付けています。
 父が隠居したことを理解できない幼い敦貞親王は、戯れに祖父・顕光にまたがり、
「動かないのろ馬だ」
と罵りました。これを見た延子は絶望し、まもなく病死します。顕光は一夜にして白髪になってしまったといいます。
 さて、敦明親王の隠居に伴い、敦良親王が立太子しました。彰子の2人目の子ですね。天皇位は2代連続で彰子の子によって継がれることとなります。
 外祖父道長は、この年、太政大臣に上り詰めています。2代連続で外祖父となることが内定し、得意の絶頂にあったことでしょう。

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