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日本人の物語01315【室町/義持期】常陸で相次ぐ反乱

以前も書きましたが、最近「常陸(ひたち)=茨城県」とか「従三位(じゅさんみ)=朝廷が与える位階で、一位~九位まである」といった言葉を説明しないようになってしまいました。だんだん素人向けではなくなっている気がして、我ながら良くないなあと思いつつ、どこまで説明を加えるべきか悩ましく感じております。

 幕府と持氏の対立は深刻ですが、そうした中でも応永27(1420)年12月に幕府が持氏を従三位に推挙している記録があり、この時点で幕府方はまだ融和を図っていたといえます。一方、持氏の方も幕府を本格的に敵に回すつもりはなく、義持宛てに進物を贈ったりしています。
 幕府と持氏の関係は、甲斐守護職をめぐる問題では辛うじて火を噴くことなく推移していきました。一方、常陸守護職をめぐる問題は深刻化していきました。
 応永28(1421)年4月28日。義持が持氏から進物をもらったことについての礼状を出しているのですが、その中で
「甲斐国については武田信重に申し付けた。持氏は現地に代官を派遣したと聞いているが、信重が着任すれば不要となるので召し返してもらいたい。また、常陸守護に山入与義を何度も推挙しているのに、まだ履行されないのはなぜか」
との記載があります。常陸守護人事をめぐっては、上杉家から養子入りした佐竹義人が当主となったことに、佐竹氏庶流の山入与義が不満を持ったことで始まった「百年戦争」がまだ続いていたのです。
 特に小田野自義は、山入与義の弟でありながら佐竹義人の当主就任を支持し、山入家中で孤立していました。その自義が5月16日に死去したのですが、真偽不明ながら
「兄の与義に殺されたらしい」
との風聞が広まり、佐竹・山入抗争はますます混迷を深めていました。
 特に常陸国内には山入方を支持する国人が多く、6月には額田城の額田義亮が二度目の反乱を起こし、鎮圧のため千秋上杉定頼(ちあきうえすぎさだより)が派遣されたものの、額田城を攻めあぐねて3年近くも長引くことになりました。
 8月14日には管領が細川満元から畠山満家に交代しましたが、その直後の10月にまたもや反乱が起こります。禅秀残党とめされ、3年前にも反乱を起こした小栗城(茨城県筑西市)の小栗満重が二度目の反乱を起こしたのです。
 持氏は甲斐国への対応に追われてなかなか鎮圧軍を派遣できなかったらしく、額田城攻めを担当する千秋上杉定頼が応永29(1422)年6月13日付けで小栗城攻めも担当することになりました。
 常陸国内で相次ぐ反乱に、持氏はやきもきしていました。これは全て、敵対勢力たる山入与義が裏で糸を引いているのではないか、と考えたのも無理はないでしょう。持氏は「山入を滅ぼすしかない」と安直に考えてしまったのですが、このことが持氏の命を縮める結果となります。

佐竹・山入抗争は100年続くのですが、時々思い出したように動きがあるので、話が飛び飛びになってしまいます。

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