見出し画像

日本人の物語01100【南北朝中期】金剛寺から観心寺へ

南朝の首都はどこにあったか、歴代首都全てを答えられる人はなかなかいないでしょうね。

 東国から大兵力が届いたことで南朝方は怖気づいており、今こそ南朝方を叩くにふさわしい時期だと思うのですが、義詮はずいぶんのんびりしています。畠山国清の軍を含めて南朝討伐軍が遠征を開始したのは、正平14/延文4(1359)年12月19日のことでした。
 12月23日、義詮はひとまず大覚寺(兵庫県尼崎市)に陣を布きます。付き添っている将たちは、細川清氏、仁木頼章、仁木義長といった面々です。一方、東国からの援軍である畠山国清は八幡に布陣しました。
 代わって南朝方の動きを見てみましょう。この頃南朝方の皇居は、河内国天野にある金剛寺(大阪府河内長野市)という寺でした。楠木正儀と和田正武は、皇居に参上して次のように述べました。
「畠山国清ら20万騎が京に着いているそうです。敵の軍勢は相当なものでしょう。しかしここは険しく守りやすい場所ですし、我々には地の利があります。もし皇居を金剛山のさらに奥、観心寺(大阪府河内長野市)というところにお移しすれば、勝利は間違いないでしょう」
 要するに、ここは危ないからもっと奥地に逃げようということなのですが、ずいぶん気を使った物言いですね。
 こうして12月23日、後村上天皇は金剛寺から観心寺へと移りました。供奉する公卿らは最小限にとどめ、多くの公家は
「どこかへしばらく落ち延びて、敵が退散するときを待て」
との指示を受けて、吉野山や高野山や十津川へと落ち延びていきました。南朝の関白や太政大臣までもが観心寺には赴かず別の場所に落ち延びたといいますから、観心寺は相当不便な場所だったのでしょう。確かに現在の地図で見てもかなり山奥のようです。
 数の上では北朝が圧倒的に有利な戦いが始まりました。
 八幡にいた畠山国清軍が宇治川を渡ろうとしたところ、敵が全くおらず拍子抜けしてしまいます。てっきり川を挟んで合戦があるだろうと思ったのに、南朝方は簡単に渡河を許してしまったわけです。
 なぜ渡河を許したかというと、楠木正儀は例によってゲリラ戦法で戦うことを決めていたためでした。
「城に籠もって戦っても、どうせ取り囲まれていつかは攻め落とされる。むしろ深山幽谷に散らばって敵に居場所を知られずにあちらこちらで戦うのがよいだろう。敵が攻めかかってきたら険しい場所に誘い込んで迎え討ち、退いて行ったら追跡する。これによって敵を疲れさせることができるだろう」
 父譲りの戦法ですが、果たして上手くいくのでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集