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日本人の物語00316【平安中期】65代花山天皇

 遵子が皇后となったことで、兼家派の公卿らが出仕を拒否し、集団でボイコットを始めました。遵子を皇后に選んだ円融天皇に対し、兼家が怒って嫌がらせをしたものです。兼家の言うことを聞く公卿がこんなに多いのですね。
 兼家としては、娘の詮子が産んだ懐仁親王を早く即位させて、外祖父になりたいわけです。そのためには円融天皇にさんざん嫌がらせをするなどして、早く譲位させ、皇太子・師貞親王が即位したところで懐仁親王を次の皇太子に据える必要があります。
 永観2(984)年8月27日。円融天皇が譲位し、皇太子・師貞親王が即位しました。花山天皇です。兼家の執拗な嫌がらせに屈したのでしょう。
 兼家の目論見通り、円融天皇の子・懐仁親王が立太子しました。
 このとき予想外の出来事がありました。皇后ではなかったはずの詮子が、いきなり皇太后に昇格したのです。本来皇太后とは前の天皇の皇后(正室)を意味するはずです。皇后ではなかった(つまり側室に過ぎない)妃が皇太后になるとは異例のことです。兼家の強引さが窺えます。
 さて、花山天皇の即位式はあまりにひどいものでした。16歳の花山天皇は、即位式で近くにいた女官を高御座に引きずり込んで犯したというのです。冷泉天皇も一日中蹴鞠に興じるなど奇行が目立ちましたが、その子である花山天皇はもっとひどい人物でした。
 花山天皇はその後も落ち着きのない行動をして周囲を困らせました。殿上人の冠を取るという悪戯もその一つです。当時、冠がなく髻(もとどり)が露出した状態は非常に見苦しいこととされていました。花山天皇はそれを承知の上で次々と人の冠を取っていったのです。今で言うとスカートめくりのようなものでしょうか。
 さらに花山天皇は、賀茂祭で自ら馬に乗ろうとして止められ、源俊賢(みなもとのとしかた:959~1027)は
「帝の狂気は冷泉帝の狂気よりも始末が悪い」
とぼやいたといいます。こんな言葉が記録に残るほど公卿らみんなが困り果てていたのですね。
 さらに『大鏡』には肝試しのエピソードが残っています。ある日、深夜の宮殿で花山天皇が肝試しを提案しました。一人で大極殿まで行って何か証拠を残してくるというものです。参加者のうち藤原道隆と道兼は途中で逃げ帰ったものの、道長は見事大極殿まで行ったというのです。天皇と摂関家が肝試しに興じるというのは面白いですが、この人たちは普段まともに仕事をしていたのか心配になりますね。

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