日本人の物語00876【建武期】正成の首
こうして義貞は命からがら京へ戻ってきましたが、戻ったときは僅か6千騎に減っていました。公卿たちはひどく狼狽し、慌てて比叡山に逃亡する準備を始めます。
延元元/建武3(1336)年5月19日、後醍醐天皇一行は比叡山に向かいました。『太平記』によると、坊門清忠も天皇とともに比叡山に逃れたようですが、自らの愚かな献策のせいで敗北を招いた坊門はどのような気持ちだったのでしょうか。
さて、この度も後醍醐天皇は持明院統の一同を比叡山に連れて行こうとしましたが、前回と大きく異なる点は、光厳上皇が既に足利方についているということです。後醍醐天皇が、尊氏が光厳上皇の院宣を受けたことを知っていたかどうかは分かりませんが、光厳上皇としては言わば味方たる足利方が攻め込んでくるわけですから、逃げる必要がありません。
光厳上皇は比叡山に向かう最中、急病と称して北白河で輿を止めました。護衛の太田全職(おおたたけもと)はやむなく花園法皇だけを連れて比叡山へと急ぎます。太田が上皇の様子を見に北白河に戻ってきたときには、光厳上皇の姿は消えていました。上皇は尊氏と合流すべく、東寺に向かっていたのです。
尊氏が京に攻め込んだところ、敵は全て逃げ出した後でした。
東寺には持明院統の光厳上皇と、その弟の豊仁親王(ゆたひとしんのう:後の光明天皇:1322~1380)が匿われていました。尊氏にとっては、自らの立場を朝敵の汚名から晴らしてくれた恩人です。ようやく会えた尊氏と光厳上皇は大いに喜びあったことでしょう。
さて、足利軍が京を占領し、湊川で敗死した楠木正成の首が六条河原で晒されることとなりました。しかし楠木正成の首といえば、かつて鎌倉幕府の手で偽物が晒されたことがあるので、民衆はこれを真の首とは信じませんでした。首の傍には
「疑ひは 人によりてぞ 残りける まさしげなるは 楠木が首」
との狂歌が掲げられました。楠木の首はまさしげ(いかにも真実らしい)だが、本物だろうかと疑う内容です。
晒し首となった後、尊氏は正成の首を丁重に河内国に送ることとしました。まだ数え11歳の正行は父の首を見るとさすがに涙を抑えられず、部屋を出て走り去っていきました。
母・南江久子(みなみえひさこ)が後を追っていくと、正行は父の形見である菊水の刀を持ってまさに自害しようとしているところでした。久子は急いで走り寄って、
「父がお前と桜井で別れたのは腹を切ってほしいからではありません。もう一度軍を起こして、朝敵を滅ぼしてほしいからです。それをいつの間に忘れてしまったのですか」
と諭しました。それを聞いた正行は泣き崩れて自害をやめたといいます。
南江久子の名は江戸時代の史料で初出のため、創作でしょう。しかし大日本帝国時代には逆境に耐えて子を育てた女性として顕彰され、久子を祀る御妣神社(みおやじんじゃ:大阪府四条畷市)が建立されたり、久子を理想とする女学校・四条畷学園(大阪府大東市)が設立されたりしています。
