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日本人の物語00431【平安後期】五摂家の誕生

 永万2(1166)年7月26日。摂政・近衛基実が23歳の若さで急死しました。清盛はこの基実に対して娘を嫁がせて関係を築いてきた経緯があり、その死は大きな損失でした。
 これにより、基実の弟・基房(もとふさ:1145~1233)が摂政となりました。この基房は平家に反感を持っており、今後清盛と対立することとなります。
 さて、基実の夭折は後世にも重大な影響をもたらすこととなります。藤原家が5つの家に分派したことです。
 忠通の四男・基実は嫡流として期待されており、近衛大路の邸宅に住んでいたので「近衛関白」と呼ばれていました。一方、五男の基房は「松殿」と呼ばれる屋敷に住んでいたため「松殿関白」と呼ばれるようになりました。
 時代を先取りして説明してしまいますが、その後、六男の兼実(かねざね:1149~1207)も関白に就任することとなります。兼実は九条の邸宅に住んでいたので「九条関白」と呼ばれました。
 四男・基実と五男・基房と六男・兼実はいずれも活躍し、どの家が摂関職を代々継承していくのかが決まらないまま、各家がしのぎを削る時代となりました。これにより、藤原家は「近衛家」「松殿家」「九条家」の3つに分裂することとなりました。
 その後、「近衛」「松殿」「九条」を苗字として呼ぶ慣習が定着していきました。「近衛基実」「松殿基房」「九条兼実」といった具合です。彼らは「藤原」という姓とは別に苗字を持つようになったわけで、公式文書の中では「藤原〇〇」と名乗りながら、平素は「近衛」「松殿」「九条」と名乗るようになりました。
 さらに時代が下ると、近衛家の中から鷹司(たかつかさ)家が分派し、九条家の中から二条(にじょう)家と一条(いちじょう)家が分派しました。
 松殿家だけは早い段階で断絶してしまったため、5つの家が残りました。
・近衛
・九条
・鷹司
・二条
・一条
 これらを「五摂家」と呼び、摂政・関白を出せるのはこの5つの家柄だけという不文律ができました。
 この後、「近衛」「九条」といった苗字の公家が多数登場しますが、いずれも藤原氏から生まれた家だと思ってください。

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