見出し画像

日本人の物語01622【室町/東国/長尾景春の乱】景春没落

景春の乱がそろそろ終わりそうです。

 文明12(1480)年5月13日。山内上杉顕定はいよいよ景春の本拠地・日野城を叩くために鉢形城から出陣しましたが、ここで邪魔が入ります。2年前に和睦したはずの成氏方・小塙小五郎(こばなこごろう)が蜂起し、上杉方の那波城(群馬県伊勢崎市)を攻撃してきたのです。もしかすると景春に乗り換えた成氏が指示したものかもしれません。
 顕定に従軍していた道灌は、慌てて高見原(埼玉県小川町)に進軍し、成氏方に味方しそうな国人たちを牽制しました。道灌の勢いのおかげか、幸いなことに他に決起する者はおらず、小塙も敵わぬと見て撤退していきました。
 道灌は鉢形城の留守を任されていた長尾忠景と相談し、
「新田荘(群馬県太田市)に進撃しよう」
と決めました。安易に秩父の奥地にいる景春を攻めようとすると、背後で反乱が起こる可能性があるので、その芽を摘んでおこうという作戦です。
 忠景は道灌の提案に一旦は同意したものの、しばらくすると
「やはり鉢形城を出られない」
と回答してきました。どうやら主君・山内上杉顕定が反対しているようです。
 6月13日。道灌は秩父を攻めるため進軍している顕定のもとを訪れ、新田荘攻めの了解をもらおうとしましたが、逆に日野城攻撃を命令されてしまいます。道灌からすれば、景春は話せば分かる相手なのに対し、成氏は薄気味悪くいつ挙兵するか分かりません。景春退治に注力する前に武蔵国内を平定したいのはそのためでした。一方、顕定からみると、道灌はなぜか景春に甘く、通謀しているのかと疑わしいレベルです。
 道灌は『太田道灌状』の中で、顕定に
「これまで、敵の城が陥落したのは道灌の功績ではありませんか。顕定殿はこれを忘れられ、道灌を妨害する連中ばかりをお使いになりました。彼らに何の功績があったのかお聞かせください」
と詰め寄ったことがあると明かしていますが、これは6月13日のやり取りだったと考えられます。いやはや、主君にここまで物を言うとはすごい家臣です。
 しかし顕定の意志は固く、道灌はやむなく景春退治を優先させることと同意しました。顕定・道灌は日野城に総攻撃を加え、6月24日には陥落させました。景春はどこへともなく没落し、しばらくは居場所が分からなくなります。
 これにて長尾景春の乱がやっと収束し、上杉方は成氏対策に注力できる環境が整いました。真心の見えない成氏とどう和睦すればよいのか、考えねばなりません。

道灌は上司から見るとかなり扱いにくい部下でしょうね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集