日本人の物語00249【平安前期】空海の帰国
話は伊予親王の変の前年に遡りますが、大同元(806)年10月22日。遣唐使の船が九州に到着しました。遣唐使として唐に渡っていた橘逸勢(たちばなのはやなり:782?~842)らが帰国してきたのです。
ちなみに、橘逸勢は去る延暦23(804)年7月に日本を出発して唐に渡ったのですが、中国語がどうしても覚えられず、仕方なく語学が不要な琴と書を学んで帰国してきました。橘逸勢といえば書家として有名で「三筆」(書に優れた三人)に数えられる人物ですが、書を学んだ理由は実は消去法だったのですね。
その橘逸勢が帰国した船に、空海(くうかい:774~835)が乗っていたことが物議をかもしました。というのも、空海はその船に乗っていてはいけないはずの人物だったのです。
空海が唐に向けて旅立ったのは約1年半前のことです。高僧として既に名の知れた最澄(さいちょう:766?~822)が還学生(げんがくしょう:短期留学生)であるのに対し、空海はまだ当時は無名で、留学生(るがくしょう:長期20年の留学生)でした。
現代から見ると20年間も留学するというのは信じられない話ですね。当時は寿命も短いでしょうから、戻ってきてから活躍できる年数の方が少なく感じます。
最澄の乗る第2船は難なく唐に到着できたのですが、空海の乗る第1船は嵐のため大きく航路を逸脱し、福州長渓県赤岸鎮に漂着してしまいます。海賊の嫌疑をかけられ、50日に渡って待機させられたのですが、このとき第1船には身分の高い役人も乗っていたにもかかわらず、まだ若年の空海が福州の長官への嘆願書を書きました。これは漢詩の形式に従って書かれたもので、あまりに格調高い名文に驚いた福州の役人たちが「正規の使節に違いない」と確信し、長安入りを許されたとのことです。
一度も唐に渡ったことがないのに、唐の役人を唸らせるほどの漢詩を作る能力をどうやって身につけたのでしょう。すごいエピソードですね。
長安に到着した空海は、サンスクリット語を習得後、恵果(けいか:746~806)に師事して密教を学びました。空海は恵果にひどく気に入られ、本来は20年かかるという密教の奥義を、なんと半年で教わることができたといいます。その直後に恵果は死去しました。
中国人の弟子が大勢いるのに、入門したばかりの日本人に奥義を授けるとは、空海はよほどの天才だったのでしょう。
その翌年に、空海は帰国しました。本来ならば留学期間20年のところを「もう学ぶべきことは学び終えた。密教の奥義を早く日本で広めたい」と言って、勝手に1年半で切り上げて帰国したのです。さすがに咎められ、しばらく都入りを許可されず大宰府にとどまったそうですが、それにしても国費で留学しておきながら、勝手に帰ってくるとは実に大胆です。
