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日本人の物語00239【奈良】藤原種継暗殺事件

 延暦3(784)年6月10日。桓武天皇は平城京を捨て、長岡京に遷都しました。
 遷都の理由としては、大阪湾からのアクセスが容易で物流上有利なことや、寺院勢力が政治に関わることを防ぐことが考えられます。
 宇佐八幡宮神託事件に象徴されるように、奈良時代には仏教勢力の政治干渉がありました。桓武天皇はそこから自由になるため、寺社の乱立する平城京を離れようとした可能性があります。事実、桓武天皇は長岡京に寺院の新設を禁止していました。
 長岡京は、現在の京都府長岡京市及び向日市にまたがる範囲です。京都市から南西に下ったところにある盆地部で、海上貿易などに有利な地理条件と考えられます。
 桓武天皇は、造長岡宮使に藤原種継(ふじわらのたねつぐ:737~785)を任命しました。種継は四子の一人である宇合の孫に当たります。桓武天皇の信頼厚い種継は、この新しい都の造営を任され、大きな裁量を委ねられていたようです。
 しかし延暦4(785)年9月23日、造営工事の状況を視察していた種継は、後方から何者かに矢を射かけられ重傷を負い、翌日死去してしまいます。捜査の結果、大伴継人(おおとものつぐひと:?~785)らが逮捕され斬首されました。さらに、首謀者は継人の父に当たる大伴家持(おおとものやかもち:718~785)であったことが判明しましたが、その家持は事件直前に病死していました。
 大伴家持といえば、万葉集を編纂したことで知られる歌人です。
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける」
が百人一首に撰ばれていることで有名ですね。
 その家持が率いていた大伴家は、古墳時代から活躍する名家であるにもかかわらず、藤原氏の主導する政府の中で存在感を発揮できずにいました。橘奈良麻呂の変のとき、大伴家からクーデター計画に参加した大伴古麻呂が、家持にも誘いをかけていたのですが、家持はこれを断り、参加を見送ったという経緯がありました。その結果、古麻呂だけが逮捕され拷問死したことに、家持は心を痛めたのでしょう。その事件による心境の変化もあって、家持は遂に藤原氏に対するテロを企てました。家持はテロ実行前に病死しますが、子の継人が、その名のとおり遺志を継いでこれを実行したというわけです。
 さて、さらに捜査を進めた結果、意外な人物がこのテロに関わっていたとの話が持ち上がって来ます。なんと桓武天皇の弟にして、皇太子である早良親王(さわらしんのう:750?~785)までもが事件に関わっていたというのです。
 桓武天皇は怒り、淡路への配流を決定します。しかし早良親王はあくまで無実を主張してハンガーストライキを行い、延暦4(785)年10月、道中の河内国高瀬橋(大阪府守口市)で餓死してしまいました。
 早良親王が本当に事件に加担していたかどうかは定かではありませんが、弟の壮絶な死を聞いた桓武天皇は、暗澹たる気分になったことでしょう。

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