見出し画像

日本人の物語00733【鎌倉後期】譲位への圧力

 さて、幕府が嘉暦の騒動に沸いていた頃、朝廷では大覚寺統の分裂に関連する重大事件がありました。正中3(1326)年3月20日、皇太子の邦良親王が26歳の若さで死去したのです。
 後醍醐天皇にとっては、甥の邦良親王が死去したことで自らの子孫に皇位を継がせる好機が到来したということになりますが、思うとおりに事は進みませんでした。両統の顔を立てたい幕府は、嘉暦元(1326)年7月、後伏見上皇の子である量仁親王を立太子させたのです。次は持明院統というわけです。
 後醍醐天皇の反応について、『増鏡』は
「いとけやけく聞こしめせど、いかがはせむにて、七月二十四日、皇太子の節会行はる」
(大変ひどいことと思ったがどうしようもなく、7月24日に皇太子の節会は行われた)
と記録しています。
 皇太子の誕生に沸く持明院統は、翌嘉暦2(1327)年に後醍醐天皇に譲位を申し入れますが、後醍醐天皇はこれを拒否します。持明院統は幕府に働きかけを行おうと鎌倉に使者を派遣しますが、負けじとばかりに大覚寺統の後二条派も同様に使者を派遣しました。
 対立派閥が2派とも使者を出したと聞いた後醍醐天皇は、急ぎ自らの使者も派遣し、鎌倉には3派全ての使者が勢ぞろいしたと言われています。幕府はさぞ対応に困ったことでしょう。
 嘉暦3(1328)年、遂に後醍醐天皇即位から10年が経ちました。譲位の圧力はますます強まりますが、後醍醐天皇は屈しません。一度露見して失敗に終わった倒幕計画を実現するまでは、譲位はできないと思ったのでしょう。
 元徳2(1330)年4月1日。後醍醐天皇が清水寺に参詣した際、側近の中原章房(なかはらのあきふさ:?~1330)が瀬尾兵衛太郎(せおひょうえたろう)に殺害されるという事件がありました。章房が
「もし倒幕計画が失敗すれば、朝儀は再び塗炭に堕ちるでしょう」
と言って倒幕に反対したため、後醍醐天皇の命により殺害されたとの説が有力です。そこまでして、次こそは失敗に終わらせないという強い意志を見せたのでしょう。
 確かに一度目の「正中の変」が発覚して幕府の目は厳しくなっており、二度目もまた未然に露見したらもう後はありません。後醍醐天皇は相当に焦っていたでしょう。
 ちなみに殺害された章房の子・章兼は、父の仇を白河に追い詰めて見事仇を取り、文官による仇討ちとして話題になりました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集