日本人の物語01507【室町/東国/享徳の乱】三千代姫の悲劇
こういう伝説の類をわざわざ挿入するから話が進まないわけですが、それでも出来る限り入れて行きたいです。
ここで、新鎌倉公方・足利成氏がまだ元服待ち状態だった頃の文安4(1447)年に起こった事件を紹介しておきましょう。といっても須賀川(福島県須賀川市)に伝わる伝説の類であり、史実とは思えないお話です。
「鎌倉殿の13人」の一人である二階堂行政に始まる二階堂家は、この頃分裂を起こしていました。鎌倉在住の二階堂式部大輔(にかいどうしきぶのたいふ)は前公方・足利持氏から岩瀬郡(福島県須賀川市)を与えられた恩があり、持氏に忠誠を誓っていたのに対し、古くから岩瀬郡に住んでいた二階堂治部大輔(にかいどうじぶのたいふ)は、自らの領地を勝手に切り取られた恨みから反持氏派に属していたのです。この式部大輔と治部大輔がどのくらい近しい親戚関係だったのかは定かではありません。
嘉吉3(1443)年に式部大輔が死去し、12歳の二階堂為氏(にかいどうためうじ:1432~1464)が家督を継ぎました。為氏は反対勢力である治部大輔を説得して和睦するべく叔父・民部大輔(みんぶのたいふ)を派遣したものの、失敗に終わります。さらに文安元(1444)年3月には自らが岩瀬郡に赴いて説得を試みましたが、激しい抵抗に遭いました。
その後、説得工作が功を奏して為氏は、治部大輔の娘で当時12歳の三千代姫(みちよひめ:1432~1447)を娶る条件で和睦し、3年後に須賀川城を為氏に明け渡してもらえることとなりました。三千代姫は鎌倉まで嫁いできましたが、3年経っても治部大輔は城を渡しません。為氏はやむなく三千代姫を離縁することとし、岩瀬郡に送り返すこととしました。
為氏の家来たちは三千代姫を輿に乗せて鎌倉を出発しましたが、暮谷沢(くれやさわ:福島県須賀川市)で治部大輔の兵たちに襲撃されます。戦いのさなか大きな落雷があり、治部大輔の家来たちは吹き飛ばされました。一方、生き残った為氏の家来たちも、離縁された三千代姫を連れ帰るわけにいかず、輿を置いたまま鎌倉に戻ってしまいます。
残された三千代姫は、
「人問わば 岩間の下の 涙橋 流さでいとま くれやさわとは」
と辞世を残して自刃し、僅か15歳の生涯を閉じました。「暇をくれ」と「暮谷沢」をかけているわけですね。
妻の死を知った為氏は悲嘆に暮れたものの、翌文安5(1448)年には治部大輔を倒して須賀川城に入城しました。暮谷沢はその後「栗谷沢」と名を変え、現在はそこに「暮谷沢の碑」や「三千代姫堂」が建てられ、三千代姫を祀っています。
しかし、どうもこの話は創作のようです。信頼できる史料によると二階堂為氏の父は二階堂行続(にかいどうゆきつぐ:?~1459)という人物で、永享の乱では持氏追討軍に加わっており、持氏方に味方するはずがないのです。そして行続はこの後発生する享徳の乱の「羽継原の戦い(後述)」で戦死するはずであり、嘉吉3(1443)年に死去したとの事実はありません。
結局でたらめなのかよ、と思われるでしょうが、そうなんです。
