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日本人の物語00884【建武期】第二次京都合戦 名和長年戦死

 東寺で足利軍と新田軍が対峙していた頃、足利方の土岐頼遠(ときよりとお:?~1342)は300騎で上賀茂に待機していました。土岐頼遠とは、悪源太こと土岐頼直の弟に当たります。
 頼遠が五条大宮にいた敵に攻めかかると、敵は戦わずして次々と逃げていきました。頼遠はそこから南に下り、新田義貞の本隊へと近づいていきます。
 義貞は敵を蹴散らして三条河原へと退きましたが、その過程で仲間の兵たちと離ればなれになり、名和長年が取り残されてしまいました。長年は僅か200騎で大宮通りで戦っていましたが、足利勢に討ち取られてしまいます。
 一方、義貞は足利勢に取り囲まれながらも、どうにか命拾いして比叡山へと落ち延びることができました。
 一体なぜ名和長年は逃げ遅れてしまったのでしょうか。
 太平記によると、後醍醐方の軍勢が比叡山から出陣したとき、見物していた女や童が、名和伯耆守長年が騎馬姿で出陣するのを見て、
「この頃天下で結城、伯耆(名和伯耆守)、楠木、千種が『三木一草』と言われてずいぶん恩賞をいただいたようだが、うち三人は討ち死にして、名和伯耆守一人が残っているそうだ」
と述べました。
 これを聞いた名和長年は
「私がこれまで討ち死にせずにいたことを、世の人々は不甲斐ないと噂しているのだろう。今回の合戦でもし味方が敗れるならば、私は一人で留まって討ち死にしよう」
と呟いたというのです。これが原因で自害同然の討ち死にを遂げたのだとしたら、あまりに悲痛な最期ですね。
 こうして後醍醐天皇方の名だたる武将「三木一草」の全員が戦死し、残った有名武将は新田義貞と北畠顕家だけとなりました。その北畠顕家も今は東北で戦っており、足利方にとって脅威ではありません。足利方は比叡山を落とすことはできないものの、有利に戦いを進めているといえるでしょう。
 ちなみに本稿は太平記をもとに書いておりますので、新田軍が三度に渡って京で敗北を重ねたというストーリーになっておりますが、史実ではこの第二次京都合戦は6月30日に行われた一回だけのもののようです。太平記はストーリーの面白味を引き出すために様々な脚色を加えているのでしょう。

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