見出し画像

日本人の物語00264【平安前期】仁明天皇の人柄

 さて、本稿では仁明天皇の性格を示すエピソードを未だ何一つ紹介していません。というのも、仁明天皇は承和の変においても特に何らかの動きをした形跡がありませんし、公式歴史書『続日本後記』の中にもどんなキャラクターだったのか窺わせる記述が見当たらないのです。
 『続日本後記』を必死に読み込んでいると、嘉祥3(850)年1月4日の段に面白い記述が見つかりました。次のようなものです。
 仁明天皇は、毎年正月に父・嵯峨上皇の宮殿に拝謁して年賀の挨拶をしていました。父の崩御後も、母・橘嘉智子に対して同様にこの拝謁を続けていました。
 この日、橘嘉智子はふいに
「私はいつも宮殿の奥にいて、輿に乗った帝の姿を見たことがない。是非見たい」
と言い出しました。
 これに対し、天皇は
「母の前で輿に乗るのはおそれおおい」
と言って再三辞退しましたが、右大臣・藤原良房に助言を求めたところ、
「礼とは敬うことと存じます。太皇太后のおっしゃるとおりにするのがよろしいでしょう」
と言われたため、遂に母の希望に応じることとしました。
 天皇は輿に乗る前に、周りを驚かせる行為に出ました。母の御簾の前で北面してひざまずき、しかる後に輿に乗って母の宮殿から出かけて行ったのです。
 天皇は通常南に向かって立つもので、北に向けて頭を下げるのは異例です。母に対してあらかじめ無礼を謝するため、あえて北面したということでしょう。
 これを見ていた貴族たちは涙をぬぐって
「天子ほどの尊い方が北面してひざまずかれた。誠に孝の道は天子から庶民に至るまで通じているものだ」
と語ったといいます。
 このエピソードから窺えるのは、仁明天皇の控えめで自己主張の少ない人柄でしょう。桓武・平城・嵯峨の3代が政治に強い意欲を示したのとは対照的に、淳和・仁明の2代は大人しかったようです。
 それは、藤原氏の政治上の権限をより強める結果となりました。これ以降、淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝と数代に渡って天皇は存在感を薄めていき、藤原良房・基経が強い個性で政務を司っていくこととなるのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集