日本人の物語01362【室町/義教期】上杉憲実と足利学校*
足利市の観光地といえばフラワーパークと鑁阿寺、そして足利学校ですね。
幕府との和睦が成立して安堵した山内上杉憲実は、永享4(1432)年に武士たちの学び場として「足利学校」を再興しました。
足利学校の創設の時期については様々な説があり、よく分かっていません。奈良時代に建てられた「国学」という教育機関がそのまま残ったものという説、平安初期に小野篁が建てたという説もありますが、いずれにせよ憲実が初めて創設したわけではなく、一度衰退していたものを再興したようです。
憲実が盛り立てた足利学校には全国から武士が集まり、儒学、易学、兵学が講じられました。この教育機関はなんと学費無料で、寮はなく近所の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園や薬草園を営んでいたといいます。
ここで学んだ武士たちは、戦国時代に各地の戦国大名たちに雇用されました。かなりのエリート養成校とみられていたらしく、フランシスコ・ザビエルは
「国内に11ある大学の中で最大にして最も有名なもの」
と記していますし、ルイス・フロイスも
「日本でただ一つの大学であり公開学校と称すべきもの」
と述べています(ルイス・フロイスにとっては他の10大学は大学と呼べるものではなかったようですね)。さらに『甲陽軍鑑』によると、武田信玄は軍師を新たに雇い入れる際には
「占いは足利にて伝授か?」
と確認したそうです。つまり兵法に必要な占いの知識を足利学校で学んだかどうかを尋ねたわけで、それだけ足利学校の教育に信頼を置いていたということでしょう。
秀吉が天下を取った頃、足利学校は衰え、その蔵書も散逸しそうになりましたが、新たに関東の盟主となって江戸に赴任した家康の庇護を受け、存続が許されました。
江戸時代には近郊の人々が学ぶ大学として再び繁栄しましたが、平和な時代が続いたことによって兵学が徐々に不要の学問となり、またもや衰退していきました。
明治以降になると、建物は朽ち果てて見る影もなくなりましたが、大正時代になってから史跡として保存する必要性が認識され、平成になると建物と庭園が復元され、日本遺産にも認定されました。
今や足利学校は栃木県足利市の誇る一大観光地であり、そこから徒歩5分の立地にある足利家の菩提寺である鑁阿寺(ばんなじ:01087回参照)と合わせて定番の観光ルートとなっています。
足利学校には去年行ってきたのですが、そこで放映されている解説ビデオの中に難しすぎて理解できない箇所がありました。「足利学校の起源については様々な説があります。一つ目は」と言ったところで画面に『国学の遺制説』という文字が表れます。その後、ナレーションが「足利学校は国学の遺制であるとの説です」と述べるのですが、それ以上の説明はなく、私は
「国学って、江戸時代の学問のことじゃなかったっけ?」
「遺制なんて聞いたことない言葉だなあ」
と思い、頭の中が?マークでいっぱいになりました。
本稿ではもう少し分かりやすく「奈良時代に建てられた『国学』という教育機関がそのまま残ったものという説」と書いてあります。

