日本人の物語01310【室町/義持期】断交の理由
「対馬危うし」といった状況です。ここから「明・朝鮮の太宗・対馬の宗貞盛・室町将軍の足利義持」の4者がわちゃわちゃと揉めます。
応永の外寇の翌月に当たる応永26(1419)年7月17日、太宗は対馬守護・宗貞盛に帰順を促し、
「対馬島民を朝鮮に移住させるか、さもなくば日本に退去させて無人島にし、直接管理下に置く」
と通告しました。太宗の倭寇への怒りは相当なもので、対馬島民は全員犯罪者と言わんばかりの要求です。まあ実際に、当時の対馬には倭寇で儲けている者が多く住んでいたのでしょう。しかし幕府から対馬守護に任命された宗貞盛としては、どう対応すべきか悩ましい通告です。
同じ7月、たまたま明の使者・呂淵が兵庫港に再度来航していました。応永の外寇が起きたことを、まだ幕府も呂淵も知りません。呂淵の持つ国書には
「義持が父(義満)の遺志を継ぐことを期待する。日本には多くの賢臣がおり道理をわきまえているであろう。倭寇を禁圧することは義持の名を歴史に刻む偉業となるだろう。過ちを悔いて朝貢と倭寇禁圧に励むように」
と書かれていました。
7月27日付けで呂淵に伝えられた義持の返事がなかなか面白いので、長めに引用します。
「隣国と友好関係を結び、商人が往来して国境を平和に保ち民衆を豊かにすることを当方も望んでいる。しかし私があえて使者に接見しないのは考えがあってのことだ。
先君(義満)が病に倒れた折にその原因を占わせたところ、神々の祟りのためとの結果が出たのである。祈祷を行ったところ、神が下した託宣には、『我が国は古来、外国に対して臣下の礼を取ったことはない。最近この方針を変更して、明の皇帝から金印を受け取って服属してしまった。これが義満の病の原因である』と出た。よって先君は明と断交するよう遺言して亡くなった。
こうした経緯があるので、先年やって来た明使・周全に私は接見したくなかったのだが、こうした事情を未だ伝えておらず、また先君を弔うために来日したとのことだったので、やむなく遺言に反してお迎えしたのである」
これが事実だとすれば、義持は何とも非科学的な理由で断交したものです。ただし、義持は朝貢を拒絶したものの、倭寇の禁圧はしっかり約束しています。
8月になって、呂淵は義持への接見が叶わぬままむなしく帰国しました。
8月7日。九州の少弐満貞(しょうにみつさだ:1394~1433)から幕府宛てに応永の外寇を知らせる書状が届きました。6月20日の出来事が今頃になって知らされたわけで、遅すぎます。恐らく明との関係に影響しないよう、呂淵が帰国するのを待ってから幕府に届け出たのでしょう。事実、知らせを聞いた義持は明の命令によって朝鮮が動いたものと勘違いして激怒しました。後に誤解と判明したのですが、もし誤解したまま呂淵と接していれば大いに揉めたことでしょう。
少弐の「戦略的遅延」は功を奏した気がします。「悪い報告は早めに」とは言うものの、上司のキャラクターによってはしばらく上げない方が良いケースもありますね。
