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日本人の物語01525【室町/東国/享徳の乱】五郎六郎合戦

佐竹氏の内紛は何度も取り上げていますが、たまに出てくる程度なので忘れちゃいますよね。

 五十子と古河、両軍の主たる陣地が確定したものの、両軍が直接激突する機会は減ったようです。長禄3/享徳8(1459)年10月には、
・14日には武蔵太田荘(埼玉県鴻巣市か)
・15日昼には海老瀬口(群馬県板倉町)
・15日夕方には羽継原(群馬県館林市)
で、それぞれ成氏と山内上杉房顕・越後上杉房定の戦いがありました。いずれも上杉方は敗北したにもかかわらず、幕府に対して勝利したと虚偽の報告を行ったようです。
 11月には、常陸国信太荘(茨城県土浦市)で成氏と佐竹実定との合戦がありました。東関東は成氏方が実効支配しているにもかかわらず、なぜこんなところにアンチ成氏の武将がいるのかというと、少し時間を戻して佐竹家の内紛から説明する必要があります。
 この時点での佐竹家のトップは既に何度か登場している佐竹義人です。義人は家督を嫡男の義俊に譲ったものの、その後は次男・実定を可愛がるようになり、関東管領就任を視野に入れて実定を山内上杉憲実の養子に出したことは既に述べたとおりです(01506回参照)。
 こうした経緯もあって、義人と次男実定はすっかり上杉びいきとなり、一方それに反発した長男義俊は成氏びいきとなってしまいました。
 享徳元(1452)年になると、実定は父の意を受けて家臣の江戸通房と山入祐義に命じ、兄・義俊を太田城(茨城県常陸太田市)から追放してしまいました。義俊は家臣の大山常金(おおやまじょうきん)を頼って、孫根城(茨城県城里町)へと逃れました。実定の仮名が六郎で、義俊の仮名が五郎なので、この追放劇を「五郎六郎合戦」といいます。
 共通の敵に対処するためとはいえ、「百年戦争」と呼ばれる長期の対立関係にある佐竹本家(実定)と山入家(祐義)が手を組んだのは注目に値する出来事です。
 以上の経緯から、東関東はほぼ成氏方の支配下にあるものの、
・太田城を拠点とする佐竹実定
・水戸城を拠点とする江戸通房
は例外的に上杉方に属していました。これら佐竹・江戸が成氏方と戦ったのが長禄3/享徳8(1459)年11月の信太荘の戦いです。この戦いは成氏方の勝利に終わりました。この後しばらく、佐竹家は敵中での孤立を強いられることとなります。
 時代が飛びますが、佐竹家のその後についても説明しておきましょう。6年後の寛正6/享徳14(1465)年9月25日に佐竹実定は病死しました。隠居中の父・義人は実定の子の義定(よしさだ)に家督を継承させようとしますが、常陸国人たちはこれに従いません。成氏方に囲まれて生きるのが嫌だったのでしょう。義人はやむなく、長男義俊が太田城主に返り咲くことを認めました。こうして佐竹本家は上杉方から成氏方に鞍替えとなり、山入家との「百年戦争」は再開したのです。

佐竹氏といえば水戸を治めていたイメージがあるでしょうが、この時点ではまだ太田城(茨城県常陸太田市)にいます。

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