日本人の物語01487【室町/西国/大乱前夜】斯波義廉登場
ある程度時系列に沿って書いているのですが、そうすると斯波の話と畠山の話を交互にやることになってしまいます。
畠山家の家督問題を長々と取り上げてきましたが、ここで斯波家の問題に視点を戻してみましょう。これまでの流れを復習すると、
①越前での守護(義敏)と守護代(甲斐)の争いについて、義政は守護代を支持していた。
②義敏は関東出陣を命じられたのに、勝手に甲斐と戦い義政に激怒された。
③義敏は周防に追放されたが、細川勝元のとりなしで家督は義敏の子・義寛が継いだ。
④守護代・甲斐常治は病死し、朝倉孝景がその役割を継いだ。
といったところです。斯波義敏は不本意にも守護の座を追われましたが、息子の義寛が後を継げるという点でまだ救いがありました。
ところが寛正2(1461)年9月2日、義政は義寛を廃嫡し、渋川義鏡(しぶかわよしかね)の子・義廉(よしかど:1445?~)に斯波家に養子入りして家督を継ぐよう指示しました。恐らく義敏・義寛父子を嫌っていた守護代方の朝倉孝景あたりが幕府に働きかけたのでしょう。
それにしても、この決定はあまりに乱暴なものでした。斯波家と渋川家はいずれも足利家の庶流ですが、鎌倉中期まで遡ればやっとつながる程度の遠縁です。ほぼ他人といってよいでしょう。なぜかくも無理のある養子縁組が行われたのでしょうか。
その鍵となるのが、当時関東で発生していた「享徳の乱」です。次章で詳述する予定ですが、「享徳の乱」とは鎌倉公方・足利成氏が幕府に対して起こした反乱であり、渋川義鏡はその成氏を鎮圧するべく幕府が派遣した人物の一人でした。
かつて将軍義政は、足利一門の中でも最強とされる斯波軍を関東に派遣すれば、成氏を葬ることができると考えていました。だからこそ斯波義敏を関東に送り込もうとしたのに、義敏が勝手に自分の戦を始めてしまい、激怒したのです。
義敏が隠居し、子の義寛は未だ4歳でしたから、今のままでは斯波軍を関東に派遣することができません。そこで義政は、渋川義鏡の子を斯波家当主に据えることで、関東に斯波家を派遣して渋川義鏡に協力させようと考えたというわけです。あり得ることだと思います。
流罪先の周防で息子の廃嫡を知った斯波義敏はもちろん激怒しました。義敏を長年に渡って支援してきた管領・細川勝元にとっても、この決定は衝撃だったでしょう。
ところが、勝元の盟友・山名宗全にとってこの決定は渡りに舟でした。というのも、義廉の母は山名一族の出身だったのです。この人事によって、三管領筆頭たる斯波家に対して宗全が影響力を行使できる可能性が出てくるわけですから、これまた勝元と宗全の仲が引き裂かれる一因となりました。
10月16日に斯波義廉が家督を継ぎました。義廉と義敏の内紛の始まりです。
畠山家は「義就VS政長」で争いますが、斯波家は「義廉VS義敏」で争うことになります。
