日本人の物語00247【平安前期】徳政相論*
延暦24(805)年12月7日。発病して床についていた桓武天皇は死期を悟り、2人の腹心を呼びました。
一人は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ:774~843)。桓武天皇にとって自らを皇位に就けてくれた恩人・藤原百川の長男です。もう一人は菅野真道(すがののまみち)。公式歴史書である続日本紀を編纂した人物としても知られている官僚です。
桓武天皇はこの二人に政策を議論させました。
藤原緒嗣は「百姓たちは軍事(蝦夷との戦い)と造作(宮都建設)に苦しんでいます。軍事と造作をやめるべきです」と主張しました。一方、菅野真道は「軍事と造作は必要なものです。やめることはできません」と主張しました。この議論を「徳政相論」といいます。
桓武天皇は結局、藤原緒嗣の意見を容れ、軍事と造作を中止しました。蝦夷平定も平安京建設も、桓武天皇が信念に基づき「民に負担を与えてでもやるのだ」という気持ちで推し進めて来た政策でしたが、晩年になって考えが変わったのでしょうか。
延暦25(806)年3月17日。桓武天皇が崩御しました。皇太子・安殿親王は起き上がれないほど嘆き悲しみ、坂上田村麻呂らに肩を抱えられて歩いたと伝えられています。
公式歴史書『日本後紀』は、桓武天皇の業績である軍事と造作について
「当年の費(ついえ)といえども、後世の頼(たより)とす」
と記述しています。
「一時的には国力を消耗させたが、後世のためになった」
というのです。
確かに平安京の造成は歴史に残る名事業でした。飛鳥時代までは、天皇の代替わりごとに新たな宮を作って国力を疲弊させていました。その悪弊を見直し、唐と同様の都を造営しようとして藤原京に遷都したのが持統天皇でした。しかし藤原京は16年しか持たず、続く平城京も74年しか持ちませんでした。
千年続く都を作ったのは、日本の歴史上桓武天皇ただ一人だけです。
また桓武天皇は、東北地方に住む「蝦夷」と呼ばれていた人たちを「討伐」すべく、何度も征討軍を組織しました。少数者を弾圧した侵略者と評価することもできますし、他国からの侵略に対抗できるだけの国力を身につけるために国家の統一を図ったと評価することもできます。
日本後紀の記述は功罪双方に言及した評価といえるでしょう。
なお、明治28(1895)年、京都で内国勧業博覧会が開催されたのを機に平安京の大内裏が復元されました。これにあわせて、桓武天皇を祭神とする平安神宮が建立されました。平安神宮は意外に最近作られたものだったのですね。

