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日本人の物語01615【室町/東国/長尾景春の乱】曖昧な停戦

最近、アメリカとイランの停戦合意にレバノンが含まれているかが曖昧だったので揉めたことがありましたね。
今回の話は足利成氏と山内上杉顕定の停戦合意に長尾景春が含まれているかが曖昧だったというお話です。この後揉めます。

 決戦が大雪のため中止となったことで、上杉軍は冷静になったのでしょう。古河公方成氏の軍と長尾景春の反乱軍とに挟み撃ちにされそうな状況に、
「このまま戦っても勝てないぞ」
と気づいた上杉軍は、和睦を考えるようになりました。文明10/享徳27(1478)年1月1日、白井城(群馬県渋川市)に滞在中の山内上杉顕定と扇谷上杉定正は、成氏の宿老・梁田持助のもとに和睦の使者を派遣しました。
 1月2日に成氏方から返事があり、「上杉氏が幕府と成氏の和睦を取り持つこと」を条件に両者は和睦することとなりました。成氏としても、20年以上も幕府との敵対関係が続いていることに危機感を覚えていたのでしょう。
 ところが、いざ和睦となると上杉方のトップである顕定が難色を示し始めます。
「古河殿(成氏)の陣には景春がいる。景春が和睦に応じるはずがない。どうせすぐに和睦を撤回して攻撃してくるのではないか」
というのです。
 その顕定を説得したのは太田道真でした。道真は
「公方殿(成氏)が一旦和睦と決したからには、なぜ裏切ることがあり得ましょうか。景春がまた暴れ始めたら、公方殿とは切り離して別途討伐すればよいのです」
と説明し、顕定を渋々承諾させました。
 とりあえず上杉方と古河公方方は停戦となり、成氏は新たに成田(埼玉県行田市)に移って幕府との和睦を待つこととなりました。この停戦を契機に、成氏は享徳元号をやめて中央政府の元号を使用するようになり、この年の4月7日が享徳元号を用いた最後の記録となります。本稿でも4月7日以降は享徳元号を記さないことにします。
 よく分からないのが、この停戦協定に長尾景春は含まれているか否かです。景春は成氏と合流したので、成氏方の武将の一人と位置付けられているはずですが、どうも停戦には応じていないようなのです。
 その証拠に、景春家臣の豊島泰経は未だ軍事行動を停止しておらず、1月24日には平塚城(東京都北区)で蜂起しています。成氏も景春の軍事行動を制止しようという様子を見せません。どうも成氏は、今後の上杉氏の態度如何で戦闘継続するか和睦するかを決めようと考えていて、長尾景春を和戦いずれに転んでも使えるように泳がせていたように見受けられます。
 景春が依然として反乱を続けていることから、道灌がその鎮圧に当たります。

成氏、なかなか姑息ですよね。

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