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日本人の物語01412【信広渡海】武田信広 若狭からの出奔

武田信広の出自についてまとめたのですが、上手くまとまらない記述になりました。そもそもまとまった話ではないから仕方ありません。

 さて、安藤政季の客将と位置付けられ、政季とともに蝦夷ヶ島に渡った武田信広という謎の人物について、その出自を探ってみたいと思います。
 まずは武田信広の子孫である松前氏の公式歴史書『新羅之記録』に沿って見ていきましょう。この文書によると、武田信広は若狭武田氏の出身だといいます。
 武田というと甲斐武田氏が最も有名ですが、その甲斐武田氏当主・武田信義(00466回参照)の五男・武田信光(00638回参照)が承久の乱での活躍を認められ、安芸守護となりました。これが安芸武田氏の始まりです。
 そして安芸武田氏4代目の武田信繁(たけだのぶしげ:1390~1465)の嫡男・武田信栄が、6代将軍足利義教の命で一色義貫を誅殺した功績を認められ、若狭守護となって青井山城(福井県小浜市)に入りました(01383回参照)。これが若狭武田氏の始まりです。(ちなみに武田信繁といえば武田信玄の弟と同姓同名ですが、全くの別人です)
 その後のことは箇条書きで記していきましょう。
①武田信栄には実子が産まれず、弟の信賢(のぶかた:1420~1471)を養子に迎えた。
②武田信賢に嫡子・信広が誕生した。
③武田信賢死去。嫡子・信広が幼少だったため、弟の国信(くにのぶ:1437~1490)が家督を継いだ。本来、国信は信広に家督を継がせるための「つなぎ」であった。
④武田国信に実子・信親(のぶちか:1458~1485)が産まれ、国信は甥の信広を邪魔に思うようになった。
⑤居場所を失った信広は青井山城から出奔して関東に赴き、足利成氏に仕官を申し込んだ。
⑥武田信広はさらに関東を出奔して三戸の南部光政(なんぶみつまさ)を頼り、田名部・蠣崎(いずれも青森県むつ市)の知行を許された。田名部に入ったことで安藤政季と出会った。
 つまり武田信広は若狭武田氏の家督争いに敗れて出奔し、福井県から茨城県を経て青森県まで当てのない旅を続けてきたというのです。何とも劇的な人生です。
 ところが、この『新羅之記録』は当てになりません。他の史料と突き合わせて①~⑥の年代を探ってみると、
①武田信栄が弟の信賢を養子としたのは永享3(1431)年頃。
②武田信賢の嫡子・信広が誕生したのは永享3(1431)年2月1日。
③武田信賢が死去したのは文明3(1471)年6月2日。このとき信広は41歳。(どこが幼少なものか。)
④武田国信に実子・信親が産まれたのは長禄2(1458)年。(③より前ではないか。)
⑤信広が青井山城を出奔したのは宝徳3(1451)年3月24日。(④より前ではないか。)
⑥武田信広が関東を出奔して三戸の南部光政を頼ったのは享徳元(1452)年。
とまあ、実に矛盾だらけなのです。結局、武田信広の正体はさっぱり分からないといってよいでしょう。

要するに、先祖不明の名もなき流れ者の武士なんでしょうね。

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