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日本人の物語01526【室町/東国/享徳の乱】堀越公方の成立

堀越は「ほりごえ」と読みます。「ほりこし」ではありません。

 長禄4/享徳9(1460)年に入って、享徳の乱は6年目に入りました。徐々に合戦の頻度も減ってきたものの、互いの敵対心は変わらず、和睦を求める声もありません。そうした中で、相模(神奈川県)から越後(新潟県)まで続く上杉ラインの一角が崩れることとなりました。というのも、年明け早々の1月に、鎌倉に在陣する今川範忠がそろそろ領国に帰りたいと言って駿河に戻ってしまったのです。あまり長期間領国から離れてしまうと、一族内部の不心得者に土地を押領されるおそれもあり、不安になったのでしょう。
 今川が駿河に帰った隙を狙ってのことでしょうが、4月になると、成氏は兵を派遣して相模から伊豆へと侵攻し、足利政知の在陣する国清寺に放火しました。伊豆の上杉軍はどうにか敵を撃退したものの、陣を焼かれた政知は堀越(静岡県伊豆の国市)に移りました。
 この堀越御所こそが政知が生涯を過ごす場所となります。これ以降、政知は「堀越公方」と呼ばれます。
 それにしても、政知はなぜ堀越に留まり、関東に入ろうとしなかったのでしょう。成氏を本気で追討したいのであれば、上杉一族が集結している五十子の陣に行くべきだと思うのですが。
 政知が堀越に留まった理由は分かっておらず、推測するほかありません。
①政知自身が消極的だった
 まず、政知自身がこれ以上戦場に近づくのを嫌がった可能性があります。政知はこの後も享徳の乱に対して指揮を振るったり積極的に関与したりした形跡がなく、相当に引っ込み思案な人間だったと推察されます。元々は僧侶であった経歴からも、戦を嫌がり(あるいは怖がり)、いつ成氏方に襲われるか分からない最前線の五十子の陣には近づきたくなかったのかもしれません。
②上杉一族が政知の来陣を嫌がった
 五十子の陣で成氏討伐のための総大将として君臨していたのは、山内上杉房顕でした。その配下には、扇谷上杉持朝に実力者・長尾景仲や太田道真がいました。彼ら上杉一族は、どうも政知の側近である渋川義鏡を嫌っていた節があります。
 そう思わせる理由としては、翌年の犬懸上杉教朝の自害や、翌々年の持朝反逆の噂といった事件が挙げられるのですが、それについては後述します。政知が五十子に来るとなると、セットで渋川義鏡もついて来てしまうため、「五十子は危険ですからわざわざお越しになる必要はありません」などと言って敬遠していた可能性があります。
 いずれにせよ、鎌倉公方となることを期待されていた政知は伊豆で生涯を過ごし、徐々に存在感を失っていきます。

堀越公方は政知の息子の代で滅んでしまうので、高校日本史の教科書では注釈に小さく載るレベルの用語に過ぎません。
ちなみに「北条政子の産湯の井戸」に行った際、その向かい側に堀越公方所を見つけたのですが、写真を撮り忘れたのが悔やまれます。

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