日本人の物語01364【室町/義教期】成身院光宣の暗躍
成身院光宣が初登場です。「この人こそが応仁の乱の黒幕だ」という主張もありまして、それはさすがに大袈裟だとは思いますが、大和国を動かし得る有力者だったことは間違いありません。
前述のとおり守護人事をめぐって周防(大内家)、駿河(今川家)で熾烈な争いが繰り広げられていますが、大和国についてもなお、大和永享の乱(南朝方の越智氏・豊田氏・箸尾氏と、幕府方の筒井氏の争い:01354回参照)が終わっていません。
永享4(1432)年9月24日。越智氏が箸尾氏に加担して、筒井城(奈良県大和郡山市)に攻め込みました。義教が富士遊覧のため京を留守にしていたタイミングを狙ったものでしょう。
9月29日に帰洛した義教は、越智・箸尾の討伐について、満済を通じて畠山満家の意見を聴取しました。というのも、反乱軍の中心人物である箸尾は一乗院に仕える国人だった一方で、畠山氏にも仕えているのです。この前年に義教が箸尾討伐軍を派遣しようとしたとき、畠山満家がそれを止めたこともあり、義教は
「箸尾の反乱は実は畠山と図ってのものではないか」
と疑っていたようです。
10月4日、畠山満家は
「箸尾と筒井の争いについては、昨年筒井方が先に攻撃してきたものであり、箸尾は悪くありません」
と弁明しました。
しかし満家の願いもむなしく、義教は箸尾討伐を決めてしまいます。というのも、このとき成身院光宣(じょうしんいんこうせん:1390~1470)という興福寺六方衆の棟梁が、義教に箸尾の横暴を強く訴え、義教はそちらを信用していたのです。
成身院光宣は僧兵の元締めのような立場ですが、筒井順覚の次男であり、明らかに筒井方の利益になるよう行動していました。興福寺別当の経覚は大和国内に幕府軍を引き入れることは望んでいませんでしたが、その経覚配下にいる成身院光宣が勝手に幕府への政治運動を始め、幕府による越智氏・箸尾氏への直接討伐が始まってしまったのでした。
11月27日、畠山持国(はたけやまもちくに:1398~1455)・赤松満祐率いる幕府軍が越智・箸尾の拠点目指して進軍を開始しました。11月30日に越智・箸尾は一戦も交えず逃亡しますが、義教は
「あくまで潜伏先を探し出して殲滅せよ」
と命じます。
いくら探しても越智・箸尾は見つからず、12月19日に幕府軍はむなしく陣を退き払って帰洛を始めました。その帰途に、越智・箸尾の意を受けた土一揆に襲われます。幕府軍は反撃しようとしますが、敵の逃げ足は速く、被害を受けただけで戦果は上げられませんでした。
結局、幕府がせっかく介入したのに大和永享の乱はちっとも終わる気配を見せません。
大和国内の戦いは、登場人物の下の名前が分からないケースが多いです。越智も箸尾も具体的な人名が分かりません。
