日本人の物語01098【南北朝中期】筑後川の戦い 日本三大合戦
書いていてふと思ったのですが、筑後川の戦いが伝説となったのは、南朝を正統とする皇国史観の影響もあるかもしれません。
少弐勢は当初は6万騎いたのですが、うち3千人が戦死しました。敗北して散り散りになり、大将・少弐頼尚は僅か24騎で敗走しました。
一方、勝利した菊池勢も約1800人が戦死する大損害を受けていました。
ここに、南北朝時代最大の激戦であった「筑後川の戦い」は終結しました。これ以降、13年間に渡って九州は南朝勢力の支配下に置かれることとなります。
さて、筑後川の戦いは川中島、関ヶ原と並んで「日本三大合戦」の一つとされています。知名度は低いものの、戦死者の数が抜きん出ているためでしょう。戦死者数を比べると(近代以降は除き)関ヶ原1万2千人、川中島7千人に続き筑後川は5千人で、第3位につけています。
また、筑後川の戦いの知名度が上がったきっかけは、江戸時代に頼山陽(らいさんよう:1780~1832)が詠んだ詩によるものかもしれません。やや省略しながら紹介します。
「文政元(1818)年11月、船で筑後川を下った。水の流れは矢のように速く、雷鳴のようだ。恐ろしくて髪の毛が逆立つほどだ。地元の人は知らないようだが、私はかつての筑後川の戦いを思い浮かべている。
国賊尊氏が権勢をほしいままにする中、勤皇の諸将は既に亡くなり、菊池武光しか残っていなかった。武光は懐良親王を守護して生死を共にする覚悟であった。軍馬が川を渡り、大激戦となる。馬が傷つき兜が割れても、菊池勢は臆せず斬り捨てた敵の兜をかぶり、馬を奪ってひたすら戦った。矢で全身がハリネズミのようになった頃、遂に6万の賊を破った。戦場を離れた武光が刀の血塗りを川で洗うと、まるで赤い雪が吹き散るようであった。
ああ、菊池四代(武時、武光、武政、武朝)の忠節は並ぶなきものだ。かくて九州の諸将は征西府に従った。菊池兄弟は心を一にして南朝を死守し、一族で北朝になびく者は一人もいなかった。この忠義の心は父・武時から受け継いだものである。
さらに明国の使いが征西府に国書をもたらしたとき、武光はこれを追放し、日本の矜持を見せつけた。明国から日本国王に任ぜられて喜んだ足利義満とは同列で語れるものではない。少弐や大友などはまさに犬やネズミ以下だ。
滔々と流れる川や肥後の山々を見ていると、菊池一族の忠節が万感胸に迫るではないか」
いやはや、天皇崇拝の水戸学の影響下にある頼山陽の詩は、菊池を大いに持ち上げて少弐・大友をクソみそに貶しています。
ちなみに詩の中で触れられている「武光が刀を洗った川」は「大刀洗川」と名付けられ、福岡県大刀洗町という地名の由来となりました。現在、大刀洗公園には菊池武光の騎馬姿の銅像があります。
