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日本人の物語00576【鎌倉前期】頼朝死す

 建久9(1198)年11月。相模川の橋が建造されて完成供養の儀式が行われ、頼朝はその儀式に参加した帰路に落馬してしまい、建久10(1199)年1月13日に死去します。
 この頼朝の死は謎に包まれています。そもそも鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』は年ごとの出来事を記述したものですが、年単位で欠けている部分が計12年もあり、頼朝が死去した建久9(1198)年と建久10(1199)年は欠けているのです。頼朝の死が不審過ぎたため、北条氏が意図的に隠蔽したのではないかともいわれています。
 では、橋の完成供養の話はどうやって伝わっているのかというと、吾妻鏡の建暦2(1212)年2月28日の段に載っているのです。既に将軍位は頼朝の次男・実朝となっている時代です。
 実朝のもとに、
「相模川の橋が壊れていて、地元民が困っている」
との陳情が来たのですが、そこに
「この橋は13年前に完成記念祭が行われましたが、その帰り道に頼朝様が落馬してしまい、それから間もなく亡くなったので縁起が悪いとされ、ずっと放置されていました」
という記載があります。
 一体、落馬が原因で死んだのか、逆に病気のため落馬したのか、落馬と死との間に因果関係はあるのか、何も分かりません。ただ、頼朝の死後、北条が幕府の実権を握っているわけですから、北条の手によって暗殺されたという可能性も十分に考え得るところです。朝廷も頼朝の死を驚きをもって受け入れたことでしょう。
 なお、このとき完成供養が行われた橋の橋脚とみられる遺構が、関東大震災を契機として茅ヶ崎市役所の近くで発見されました。頼朝は茅ヶ崎と鎌倉の間のどこかで落馬したのですね。
 土御門通親は、自身の鎌倉幕府とのコネクションを強めるため、頼朝の長男である頼家の中将昇進を図っていました。ところがそこに頼朝死去の知らせが届いてしまいます。父を亡くしたばかりの子は喪に服さなければならず、しばらくは昇進などさせるわけにいきませんが、そうすると、頼家昇進は翌年以降となり、大幅に遅れてしまいます。
 そこで通親は、頼朝死去を知らなかったことにして臨時の除目を行い、頼家を無理やり中将に昇進させました。その翌日に
「昨日頼家を昇進させたときには、既に頼朝は死んでいたようだ。驚いた」
と述べて、自宅に謹慎し始めました。
 藤原定家は、日記に
「奇謀の至なり」
と記し、通親の強引さに呆れ果てています。

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