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日本人の物語01281【室町/義持期】義持の性格

「贔屓(ひいき)」という漢字の構造は不思議ですね。2文字の熟語に貝の字が4つも入っているとは。こんな単語は他にないんじゃないですかね。

 足利義持は、元中3/至徳3(1386)年2月12日、3代将軍義満とその側室の藤原慶子(ふじわらのよしこ:1358~1399)の間に産まれ、義満側近の伊勢貞行(いせさだゆき:1358~1410)に養育されました。義満には正室・裏松業子がおり、業子の死後はその姪の裏松康子が正室となっていましたが、いずれも子を産まなかったため、義持が嫡子に立てられたようです。
 なお、義持には尊満という兄がいましたが、なぜか嫡子候補にはならず、早い段階で青蓮院に入室し、僧として育てられました。その理由は明確ではありませんが、母親の加賀局(かがのつぼね:?~1422)が初めは中山親雅に嫁いでいたのを、義満が見初めて妻にしたためかもしれません。つまり尊満は真に義満の子なのか、はたまた中山親雅の子なのか、疑わしかったというわけです。
 義持の政治は、とにかく父・義満の事績に反発し、その逆を行ったといわれています。義満に反発した理由としては、
・義満が晩年、義持よりも弟・義嗣を依怙贔屓(えこひいき)したこと
・応永6(1399)年5月8日に母・慶子が死去したとき、義満は悲しんだ様子を見せず、死去翌日に家臣の邸宅で酒を飲んでいたこと
・さらに慶子の喪中に当たる6月23日に、義満が北山御所で酒宴を開いたこと
などが挙げられています。
 義持は義満と性格も大きく異なります。
①義満は酒好きでたびたび酒宴で乱れるほど飲んだが、義持は酒を好まなかった。
②義満は豪華な北山殿を作らせるなど大きな出費をしたが、義持は万里小路時房(までのこうじときふさ:1395~1457)の日記『建内記』に「倹約お好き」と書かれるほど倹約家であった。
③義満は石清水八幡宮への参詣を取りやめた際、吉田兼敦が「ただ御敬神なきの故か」と日記に書き残すなど、神仏を尊ぶ気持ちがないことで知られていたが、義持は男子誕生という八幡神のお告げを強く信じている様子が満済の日記に描かれるなど、神仏崇拝の思いが強かった。
④義満は天皇・上皇・摂関家を軽んじていたが、義持はこれらを尊崇し、蔑ろにしなかった。
 どうも義持というのは無趣味で真面目な堅物であり、足利直義に近い性格のようです。好感の持てる人物のように思われますが、義持は年齢を重ねるにつれ変容し、やがては父・義満と同様に天皇・上皇・摂関家を軽侮する傲慢な独裁者へと変貌していきます。

義持は「徐々にパワハラ気質になる」という点では義満とよく似ていますが、義満が豪快キャラなのに比べて義持は細かい点ばかり気にする面倒な上司という感じです。

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