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日本人の物語01655【室町/西国/六角征伐】雪舟の生涯

こういう文化史も可能な限り取り上げたいと思いつつ、どうも飛ばし気味になってしまいます。

 文明18(1486)年には、水墨画の大家・雪舟(せっしゅう:1420~1506)が最高傑作といわれる『山水長巻(四季山水図)』を描きました。ここで室町時代最大の美術家・雪舟について紹介しておきましょう。
 雪舟は応永27(1420)年に備中国赤浜(岡山県総社市)の小田氏という武家に産まれました。生誕地には「雪舟生誕地公園」があり、作品や雪舟像が展示されています。
 幼い頃に近くの宝福寺に入れられましたが、この寺でのエピソードはあまりにも有名です。
 雪舟は絵を描くのが好きで、絵ばかり描いてちっとも経を読もうとしないため、寺の僧が雪舟を仏堂の柱に縛りつけてしまいます。しかし、雪舟は身動きできない状況でもなお絵を描きたいと思い、床に落ちた涙を足の親指にこすりつけ、その涙で床に鼠の絵を描きました。僧はその絵の出来のすばらしさに感心し、雪舟に絵を描くことを許しました。
 このエピソードに関連した伝説としては、床に描かれた鼠の絵が生命を得て動き出したというものもあります。
 10歳頃になると雪舟は京の相国寺へ移り、周文(しゅうぶん)という僧から絵を学ぶことになりました。京では、絵を描くことは禅の修行として認められていたようです。
 享徳3(1454)年頃になると雪舟は周防国に移り、周防守護・大内教弘の庇護を受けられるようになりました。当時、大内家は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたから、雪舟にとっては強力なパトロンを得たことになります。「雪舟」と名乗り始めたのはこの頃です。
 大内家の援助によって応仁元(1467)年には明への留学を果たし、2年間に渡って本場の水墨画に触れる機会を得ました。留学中の雪舟が弟子に書き送った書状には
「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩や画の良さを再認識した」
とあり、雪舟が学んだのは明の同時代の画家ではなくもっと古い宋や元の時代の画家だったようです。これらの絵を模写しつつ、雪舟は中国各地の風景を写生しました。
 文明元(1469)年に帰国した雪舟は、日本全国を渡り歩いて写生を続けました。文明18(1486)年に『山水長巻(四季山水図)』を、文亀元(1501)年に『天橋立図』を描くなど精力的に作品を量産しましたが、この漂泊の旅は大内氏から依頼を受けてのスパイ活動の意味もあったとの説があります。確かに、「絵師による写生の旅」というのは他国の情勢を探る隠れ蓑にぴったりだったかもしれません。
 雪舟は永正3(1506)年に、益田(島根県益田市)で没しました。その最期の地には「益田市立雪舟の郷記念館」が建てられ、雪舟の代表作が展示されています。

雪舟は国立博物館で何度か見ましたが、島根や岡山の展示も見てみたいものです。

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